これは、私の母、姑から聞いた話です。
昔の結婚式は、自宅で行われました。
花嫁の控え室といっても、自宅なので薄暗かったそうですが、そこで、初めて親戚の人達と
挨拶を交わしたそうです。 結婚式の後、次の日は親戚顔見世の披露宴をし、
それから新婚旅行に出かけたました。そして、1週間新婚旅行に行った後、みやげ物を
配りに親戚中を歩き、今度は、「ハナガエリ」(次回「第6回」参照)をした後、もう一度、
嫁の方からみやげ物を持って(このみやげ物は千歳屋という饅頭屋さんであらかじめ
用意してもらったもの)又、親 戚中を配り歩いたそうです。
又これは別の方にお聞きした話ですが、一昔前は、披露宴を2回したそうです。
1回目はホテルで済ませ、今度は田辺で田辺の親戚、近所の人を呼んでお嫁 さんの披露を
料理屋もしくは自宅でしたそうです。昔ほどではありませんが、私の場合ですと、結婚式自体に
近所の方を呼んでのお披露目でした。但し、私 は花嫁として壇上にいるわけですから、
相手の方の顔は全く覚えておりません。まさに、「お披露目」であって一方通行なものでしたが・・・。
『田辺郷土史なんやかんや』によりますと、私の住んでいる田辺の隣、草内地区では、昭和十五年頃から、
生活改善委員会なるものが結成され、披露宴や挨拶 周りも申し合わせで、簡素なものに変えたそうです。
例えば「結婚の場合は、式の列席を親族は婿方嫁方とも各三人程度で、披露宴も簡素を旨とした三時間程 度。
新婦の土産も二百円(注:昭和三六年)以内のもの、一回きりで、近所、親族へのあいさつにまわる」と
書いてあります。というのも、田畑の不動産が 高騰し多額の金が入るようになった昭和四十代頃は、
どうしても冠婚葬祭が派手になりがちだったので、このような規定を加えないといけなかったようです。
あそこの家の結婚式では、あんなことをしていた、こんなことまでしていたから、うちでも最低ここまでは
しなくてはいけない、などという意識が田舎ではど うしても働くらしく、こういう規定を作らなくては、
人生のハレの舞台である冠婚葬祭の場面など、どんどん華美になっていきます。
私も考えてみれば、私の 姑は私の時ここまで派手にしてくれたけれども、果たして私の代になって
こんなことまで出来るか、(特に、葬式関係は葬式1回だけでも莫大な金額になるのに、
葬式は結婚式とは違い、1回では済まないところがネックなのです。)
金銭的なことを考えてみても、とても苦しいものがあります。
一体昔の人は、どうやってこんなお金をかき集めてきたのか、えらいというか、
凄いことだけど、やっぱり私の時代ではここまでできないというのが、正直な思いです。