
洛中編 鞍馬編 義経の詳しいプロフィール |
九郎判官、伊予守。
源義朝の子で母は九条院雑司常磐。頼朝の異母弟。
幼少の頃平治の乱により父義朝が死に、母常磐に連れられて落ちのびるも、途中捕らわれて清盛の手に落ちる。
清盛は常磐を愛人とする代わりに義経ら(今若・乙若・牛若)の命を助ける。
名を牛若丸といい、6歳から10年間鞍馬山で僧侶になるべく修行させられるも、その実、天狗に武芸を習っていたという。
やがて成長した義経は金売吉次の手引きにより、奥州へ逃亡、平泉の藤原秀衡の許に匿われた。
やがて頼朝の挙兵に応じ、治承四年(1180)八月、初めて兄頼朝と対面を果たす。
兄範頼と共に京へ向けて出陣した義経は義仲を討ち、更に西下して平氏を壇ノ浦に撃破。京都へ凱旋する。
しかし京都で勝手に朝廷から官位を授かったことや捕虜となった平時忠の娘を
めとったことなどで頼朝の怒りを買った義経は、鎌倉へ下向したものの途中の腰越に留めおかれた。
仕方なく再び帰洛した義経の許に叔父行家が身を寄せたことで、頼朝は更に義経へ警戒心を抱き、
義経もそれに対抗する形で後白河院に頼朝追討の院宣を求めた。
しかし義経の許には兵力が集まらず、畿内各地を転々とした後に奥州に逃れて藤原秀衡を頼った。
![]() |
文治三年(1187)に義経の所在が判明したことから頼朝は再三藤原氏に対し 義経の引き渡しを要求。 文治五年(1189)秀衡が死去すると、嫡子泰衡は鎌倉幕府の圧力に屈して義経を 衣川の館に攻めた。 義経は妻子と共に自害。首は鎌倉へ送られた。 しかし腐敗がひどかったことから、 義経自身の首であるという確証は得られなかったようである。 ここから義経ジンギスカン説など、数々の伝説が生まれている。 |
※このページの掲載情報は、取材時のものであり、現在のもの、歴史上の事実とは異なる場合がございますので、ご了承下さい。参考としてご覧頂きますようお願い申し上げます。 |