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【平安騎馬隊】
全国の警察では警視庁と皇宮警察、京都府警だけにある騎馬隊です。
引退した競走馬が交通安全教室や、京都御苑などの観光地のパトロールとして活動しています。
その中でも、京都三大祭りの葵祭(5月)や時代祭では行列巡行を先導するため、例年ベテランの馬が大役を務めます。
行列に参加するため各地から集まった多くの馬たちの中で、万が一暴れた際には、騎馬隊で進路を塞ぎ熟練の隊員がなだめて安全を確保する「奔馬対策」という最重な役目があるのです。
【名誉奉行】
京都府知事・京都市長・京都市会副議長・商工会議所会頭・時代祭協賛会会長・時代祭旗・総奉行
【明治維新時代】
・維新勤王隊列 画像 画像2
幕末の遺臣が反乱を起こしたとき、山国村(現在の北桑田郡京北町)の有志が山国隊を組織し官軍に加勢した際の行列を再現。→参考リンク
御使番:伝令や監察業務を担当する役。
軍楽隊:軽快なリズムで志気を高めます。 画像
錦の御旗:官軍(朝廷の軍)の旗印。赤地に金の日像を、隣は銀の月像を刺繍しています。朝敵討伐の明かしとして、天皇から官軍の対象に下賜されるもの。
鳥羽伏見の戦いでも大きな威力を発揮しました。
(列前方から)隊長・参謀・指令長:隊長の陣笠の額には「魁」の印が入っています。
輜重頭(しちょうがしら):食料等の軍用品を運送する役の長。
弾薬箱
・維新志士列
桂小五郎、西郷隆盛、坂本竜馬、中岡慎太郎、高杉晋作ほか。
明治維新の頃に活躍した重要人物がたくさん登場するのがこの列。見どころ満載です。 →参考リンク
桂小五郎・西郷吉之助・坂本竜馬・中岡慎太郎・高杉晋作
七卿落:三條實美(さねとみ)ら急進派の公卿らが、長州藩等の攘夷派の志士と討幕を企てるも、穏健派との政争に敗北。この行装は、七卿が夜の雨の中を真木和泉や久坂玄瑞に護られながら長州に落ち延びた様子を表しています。
真木和泉:寺田屋事件や七卿落ち等に関与。長州藩と共に上洛し、蛤御門の変で敗れて自刃しました。
七卿...三條實美、三条西季知(すえとも)
東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとおさ)、四条隆謌(しじょうたかうた)、錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)、澤宣嘉(さわのぶよし)
吉村寅太郎:天誅組を率いて大和に挙兵した土佐藩士。
頼三樹三郎(らいみきさぶろう:儒学者・頼山陽の子。
梅田雲浜(うめだうんぴん):儒学に精通した小浜藩士。
橋本左内(はしもとさない):蘭学を修め、一橋慶喜の将軍擁立に奔走した福井藩士。
吉田松陰:松下村塾を開き、多くの俊才を輩出しました。
近衛忠煕(このえただひろ)
姉小路公知(あねがこうじきんとも)
三條實萬(さんじょう さねつむ)
中山忠能(なかやまただやす)
平野国臣(ひらのくにおみ)
【江戸時代】
・徳川城使上洛列
大礼や年始等、朝廷で重要な儀式等が行われる際、徳川幕府は将軍の名代として諸藩または普代の大名を上洛させて、皇室に対する礼を尽くしました。その行列 は、一般の大名行列よりずっと豪華盛大で格式の高いものであったといいます。
時代祭では、先頭の槍持、傘持、挟箱持の掛声と動作で当時の行列を偲ばせます。
長持:主に衣類や寝具を収納して運びます。
奴(やっこ)たちが道具を持ち、独特の歩き方をしています。
「奴振り(やっこぶり)」と呼ばれる、武家の供揃えに由来する民俗芸能の一種で、行列の出立や国入りなどの要所で演じられていました。
城使:将軍の名代としての城使は本来駕籠に乗りますが、時代祭では騎馬姿です。
駕籠 跡乗番頭
合羽籠、具足櫃:主に合羽籠には雨具、具足櫃には甲冑等な入っています。
・江戸時代婦人列
和宮、蓮月、吉野太夫、出雲阿国ほか。
孝明天皇の皇妹・和宮が輿入前の宮廷女房装束・十二単姿で先頭を進みます。
黒無地の小袖を着ている のが豪商・中村内蔵助の妻です。衣裳比べで「粋」を体現させたエピソードにちなんでいます。
また、女流歌人のお梶、池大雅の妻の玉瀾、名妓の誉れ高い吉野太夫、「かぶき踊」を演じ歌舞伎の創始者とされる出雲阿国などが続きます。
江戸時代婦人列、中世婦人列(鎌倉)、平安時代婦人列は、各花街(祇園甲部・祇園東・先斗町・宮川町・上七軒)が参加します。京のきれいどころ大集合ですね!女性の衣装はやはりきらびやかで見ていてうっとりしてしまいます。
和宮:平安神宮の祭神・孝明天皇の妹君。女嬬を従えた十二単姿です。公武合体のため有栖川宮との結婚を諦めて十五代将軍徳川家茂に降嫁しました。
「惜しまじな國と民のためならば身は武蔵野の露と消ゆとも 」という有名な歌を残しています。
大田垣蓮月:京都出身、江戸末期の歌人。蓮月と名乗ったのは尼になってからでしたが、ここでは娘時代の姿を再現しています。
玉瀾(ぎょくらん):画家・池大雅の妻であり、本人も和歌に秀でた画家として有名です。また、行列の後で登場するお梶(祇園梶女)の孫にあたります。真綿紬の小袖姿。
中村内蔵助の妻:京都の銀座で巨万の富を築いた中村内蔵助の妻。漆黒の着物姿と背後の腰元(侍女)の華やかさとの対照的な様子は、彼女が衣装比べの際に大きな賞賛を得たエピソードにちなんでいます。
梶(祇園梶女):元禄時代の歌人。祇園で茶店を営む実業家でもありました。ここではシンプルな小袖姿です。
吉野太夫:寛永の頃の京都六条三本筋の芸妓で、豪商・灰屋紹益の妻となりました。男衆と禿を従え、名妓との誉れ高かった頃の太夫姿で、打掛小袖に帯を結んだ盛装です。
出雲阿国:出雲大社の巫女と称し、四条河原で念仏踊りを演じたのが歌舞伎の起源と言われいます。巫女の旅姿で、後ろに弟子を連れています。
【安土・桃山時代】
・豊公参朝列
豊公の参朝のうちで、慶長元年5月の豊臣秀頼の初参台や同2年9月の元服の時が最も盛んであったと伝えられ、この列はその様子を表したもの。
お供をする大名は「一日晴れ」というその日だけに許された規定外の華麗な衣冠装束に武家風の太刀を付けています。牛車の前後の大名は、実際にはより大人数だったそうです。
騎馬の大名は五奉行を想定しています。
前田玄以
石田三成
浅野長政
増田長盛(ましたながもり)
長束正家(なつかまさいえ)
牛車:ビロウの葉で屋根を葺いた檳榔毛唐庇車(びんろうげひさしくるま)。御簾等の色文装具等は最高の様式となっています。
・織田公上洛列
応仁の乱より衰微した京都の復興ため、上洛する織田信長を表したもの。
永禄11(1568)年、織田信長は正親町(おおぎまち)天皇のお召しを受け、兵を率いて上洛。京の復興に尽くしました。各武将の馬印に歴史ファンは興奮するかも!?
信長を粟田口で出迎えたという立入宗継(たてりむねつぐ)は烏帽子に緑地の狩衣姿。
羽柴秀吉は勝色(かちいろ)日の丸胴丸に五七の桐紋の陣羽織、三ツ鍬形前立の兜を被っています。糸巻太刀を挿し、手には鞭を持っています。
馬印は、大瓢箪の周りに5つの小瓢を下げた千成瓢箪
丹羽長秀(にわながひで):永禄11年の箕作城(みつくりじょう)攻めでの功で、信長の重臣に。溜塗革包胴丸に拍子木紋の陣羽織、唐冠兜を被り、縹柄巻太刀と鞭を携えています。馬印は、拍子木紋小旗付馬聯(ばれん)。
織田信長は、鉄板を多用した当世具足の紺糸で綴じた胴丸に三枚錣(しころ)鍬形打兜、鎧の上には正親町天皇より拝領の端袖大領蜀紅金襴の胴服という華麗な装い。
茶革糸巻太刀と腰刀を佩き(はき)、采配を手にしています。馬印は大金瓢。
滝川一益(たきがわかずます)は、黒糸縅具足に赤地立で木瓜紋の付いた陣羽織、銀水牛脇立兜、茶柄巻革太刀に、手には扇を持っています。馬印は頭黒白毛膝革角取に四つ花びらの木瓜紋です。
柴田勝家:織田家の宿老。後に信長の妹・お市の方を妻にします。
革包紫糸縅具足に結び雁金紋陣羽織、銀瓦形脇立兜、紺柄糸巻太刀に鞭。馬印は、十七枚重金幣。
【室町時代】 2007年に新設されました!
・室町幕府執政列
当時の武士の軽武装姿と、特徴的な風俗を表現。
騎馬小具足姿の足利将軍、幕府の執政にあたる三管領・四職の主要氏族と、公家や法中・博士、医師といった他の列では見られない人々が参列します。
政所執事 伊勢氏:引立烏帽子に色々縅(いろいろおどし)の腹巻、太刀に藤巻の弓を携えた姿です。
足利将軍:赤地金襴桐文様の鎧直垂に引立烏帽子、紺糸縅の喉輪・脇盾・佩盾の小具足姿。黒熊毛の貫(つらぬき)、重藤の弓と鞭を持っています。
管領 細川氏:将軍の補佐という大役で細川・斯波・畠山の三家が交替で就任しました。藍糸縅の銅丸、金梨地の太刀、黒塗柄赤糸巻の長巻を持った唯一兜を付けた姿をしています。
侍所所司 山名氏:代々山名・一色・赤松・京極氏の四職が交替で務めました。色々縅の銅丸に太刀、藤巻の弓姿です。
評定衆(ひょうじょうしゅう) 二階堂氏:政事を合議し、決裁する役。色々縅の銅丸に太刀、藤巻の弓姿。
・室町洛中風俗列
風流傘を中心に笛や鉦、音頭取り、子役による太鼓打ち等の「中踊り」と、小袖姿で竹製のささらを持って踊る「側(がわ)踊り」で構成されます。 画像 画像2
藤森神社の藤森太鼓保存会、深草郷神輿会、女神輿会の中から、有志が「深草室町風俗列保存会」を結成し、室町中~後期に男性が女装して踊り、庶民の間に流行したという「風流踊り(ふりゅうおどり)」を再現します。
この風流踊りは全国各地に伝わって様々な芸能を生み、江戸時代以降の盆踊りの原型にもなりました。
【吉野時代】
・楠公上洛列
1333年に後醍醐天皇が配流先の隠岐からの環幸されるにあたり、楠木正成が一族を率いて兵庫に出迎え先駆して上洛しました。楠公一代の盛事と言われたこの様子を表した行列で、多種に渡る華麗な甲冑や武具が見ものです。
先駆 貝役 太鼓 楯突
菊水紋旗旗差:楠木正成は、建武の新政に対しての功により天皇から菊紋を下賜されましたが、畏れ多いとして、半分を水に流した菊水紋にしたといいます。
楠木正成:赤地菊水文錦の鎧直垂に紫裾濃の大鎧、三鍬形二方白五枚錣兜を被り、兵庫鎖長覆輪太刀に豹鞘、赤木柄の腰刀を佩いて、白猪逆頬箙(さかつらえびら)を背負い、白重藤の弓を持っています。
楠木正季(くすのきまさすえ):赤地菊水文錦裁替縹片輪草文の鎧直垂に逆沢潟縅(さかおもだかおどし)大鎧、長鍬形二方白五枚錣兜、黒漆革包太刀と銀蛭巻太刀を重ねて佩き、黒猪逆頬箙を背負い、重藤の弓を持っています。
後に続く侍大将は、卯花威胴丸、直垂、空穂、空穂袋など。
・中世婦人列
大原女、桂女のほか、淀君、静御前など。
豊太閤の側室・淀君の打掛や、静御前の白拍子時代の水干姿などが、ファッションチェックポイントです。
大原女:洛北の大原から京の街なかへ薪や炭などを売りに出ていました。この列では室町末期頃の姿です。→参考リンク
桂女:洛西の桂から、鮎や飴を売りに出たり、婚礼や出産の際には祝詞を唱えるなど、巫女としての役割も果たしていました。室町頃の小袖姿に「桂包」姿です。
淀君:太閤秀吉の側室であり、秀頼の生母。侍女を従えたその外出姿は、唐織、刺繍、染め、絞りといった最高の技術を集めた桃山時代を代表する豪華さです。
藤原為家の室:『十六夜日記』の筆者で、子息・為相(ためすけ)の所領訴訟の為に天下りしました。ここでは中世女人の旅姿です。
静御前:源義経の愛妾で、悲劇の女性として知られています。平安末期から女人の舞装束・白拍子の姿です。
【鎌倉時代】
・城南流鏑馬列
流鏑馬は平安朝以来行われた騎射の技で、武者のたしなみとして盛んに行われていたと伝わります。
この列は、承久3(1221)年5月に、後鳥羽上皇が朝廷権力の回復を図るため流鏑馬に託して城南離宮に近畿10余りの国の武士1700名余りを集め、北条義時追討の挙兵準備をした一場面を表しています。
射手武士:綾藺笠(あやいがさ)の中央の巾子に髷を差し込んだ姿で、水干に奴袴を履き、綿の射籠手(いごて)を左手に通しています。腰には鹿皮の行縢(むかばき)を巻き、物射沓を履いています。童・弓袋差し、的持ち、飼糧桶持ち等の郎党を従えています。
【藤原時代】
・藤原公興参朝列
藤原氏の最盛期の文武両様の姿を表したもの。
遣唐使が廃止され日本独自の国風文化が成熟し、強装束が起こって大きく容儀が整えられました。
列には宮中の儀式に参加する位の高い貴族の文官、武官の夏の正装姿や警護をする随身、童等の様々なお供も加わってとても華やか。
石帯をしている文官・武官の束帯は、よく見ると文官のは冠の後に纓(えい)が下がり、武官は巻き上げた纓の冠を被って黒の藻勝見文の袍(ほう)の腋は開いています。
文官は三位、武官は四位で、黒い色は最高位の色とされています。
腰掛ける際に使用される毛皮は、豹の皮が公卿(文官・武官)用、虎の皮が殿上人用です。
・平安時代婦人列
小野小町、紀貫之の女(むすめ)、紫式部、清少納言、常盤御前、横笛、巴御前など。
この300年は女性の服装が大きく変化しました。遣唐使の廃止頃から日本文化は国風化の道を辿ります。奈良時代の様式の百済王明信から常磐御前・横笛・巴御前といった歴史に名を残す女性を通して、時代風俗の変化を示した構成です。
巴御前:木曽義仲の愛妾で武勇の誉れ高き女性。透彫りの天冠に胴丸を付け、太刀に長刀を携えて義仲と共に出陣した時の姿です。
横笛:建礼門院の雑仕女。袿(うちき)に市女笠の旅姿で、出家した斉藤時頼の後を追っている様子です。
常磐御前:源義朝の側室。義朝が平治の乱で戦死した後、子供達の助命を平清盛に乞うため雪中を六原に向かう姿を表しています。
連れているのは今若と乙若、牛若は常磐の懐にいます。
清少納言、紫式部:清少納言は『枕草子』の筆者。清原元輔の娘で、一條天皇の皇后・定子に仕えました。唐衣に裳を着けた女房装束(十二単姿)の女官の正装をしています。
2017年には、清少納言の十二単が27年ぶりに一新されました。 残念ながら時代祭行列は天候理由により中止されましたが、最も上に着る唐衣(からぎぬ)や、その内側の打衣(うちぎぬ)の一部には、光沢を出す「板引」という伝統技法により紅色が引き立ち、スカートの様な形状の裳には、松や海辺の絵柄が描かれています。紫式部は『源氏物語』の筆者。一條天皇の中宮・彰子に仕えました。こちらは小袿衣(こうちぎ)姿の略装をしています。
紀貫之の女:村上天皇の時代に、清涼殿の梅が枯れてしまい、代わりに西京から移した梅の枝につけてあった女の歌から、貫之の庭の梅だと分かったという故事にちなんで梅の小枝を手にしています。袿、単小袖に濃紅の切袴という、10世紀半ばの若い未婚女性の平素の姿をしています。
小野小町:六歌仙・三十六歌仙の一人に数えられています。出羽国の群司・小野良貞の娘で、才色兼備であったといわれています。神像等から考証し、ここでは唐風の残る平安初期の女官の礼服姿です。
和気広虫:平安時代初期に活躍した和気清麻呂の姉で、我が国において孤児院の起源をなしました。唐風を色濃く残す規定外の平服姿です。
百済王明信:藤原継縄の妻。百済王氏の出身で、桓武天皇の信頼が厚く尚侍(女官長)として天皇を陰ながら支えました。平安初期の女官の正装姿をしています。
【延暦時代】
・延暦武官行進列
東征を終えた坂上田村麻呂が平安京に凱旋する様子を表現しています。
桓武天皇が治めた時代の「延暦」という元号は、「平安楽土」の実現への思いが込められており、延暦13(794)年に平安京へ遷都して新たな都造りに尽力する一方、東北を鎮定する事で国家の再生を図りました。
主将や副将など身分に順じた衣装や武具は、正倉院御物や古墳の出土品等による考証がなされています。
鍬形兜や星兜をはじめ金小礼沢瀉威挂甲、銀小礼挂甲、纛旛(とうばん)など価値のある行装の数々を鑑賞できます。
平安時代や江戸時代の衣装というのは、テレビ等で目にする機会がありますが、この時代(延暦)の衣装は普段はめったに見ることができません。時代祭ならではです。
武官行進列の大将・坂上田村麻呂は清水寺を建立した人物。衣装はどちらかというと奈良時代風で、これは見逃せない!
将佐 主将 征夷大将軍 坂上田村麻呂
副将
・延暦文官参朝列
延暦15年朝賀の儀式のため公卿諸臣が参朝する様子を再現したもの。
平安遷都当初の藤原百川、継縄、和気清麻呂らの文官を想定しています。
蓋(がい)
平安遷都から間もない頃のため唐風が色濃く残されており、位袍と呼ばれる朝服は、身分によって色が定められています。
三位:最高位の浅紫の三位は、平安神宮に到着後、全行列の代表として大極殿で祭文を奏上します。
四位は深緋色、五位は浅緋色、六位は深緑色をしています。
【神幸列】
・神饌講社列
時代祭当日の神饌物を奉献する人たち。京都料理組合がその役を担います。
供奉長と浄衣姿の膳手(かしわで)
白の礼装姿の正副御饌長(みけちょう)
御饌長
・前列
御神幸列の直前を行くので前列といわれます。
賢木に続き、金棒を持つ中座、キリコ座・ブチ座の下雑色や上雑色といった警備役(江戸時代の姿)のほか、迦陵頻伽や胡蝶等の優美な衣装や楽人等の狩衣が見られます。
迦陵頻伽と胡蝶:朱色の迦陵頻伽は、極楽浄土に住む美しい鳥を表しています。背には鳥の羽根、天冠には桜花を挿しています。
緑色の胡蝶は、高麗壱越調舞楽の舞人です。背中に蝶の羽根、天冠には山吹の花。
楽人たちと荷太鼓、荷鉦鼓
・神幸列
前の御鳳輦(ごほうれん。江戸後期の様式)に西本殿の孝明天皇、後の御鳳輦に東本殿の桓武天皇が鎮まっており、一年に一度、市中を巡幸して市民の安らかな姿を親しくご覧になります。時代祭の中で主たる意義を持つ列です。
御鳳輦の御剣、弓や楯、矛、紫 御翳、管御翳、神馬用馬具が見られます。
権禰宜(ごんねぎ) 禰宜
鳳輦 鳳輦2 錦蓋、菅蓋
・白川女献花列
比叡山から流れる白川流域に住み、季節の花を売り歩くのを業としていました。
平安時代中頃から御所に花を届けていたともいわれています。
本列では、神前に供える花を頭に乗せています。 画像 画像2
・弓箭組列
桓武天皇の平安遷都のとき列の警護にあたり、明治維新の折りには山国隊と共に活躍した弓先の術にたけた弓箭組の様子。 画像 画像2 画像3
丹波国南桑田(現・亀岡市)、船井(現・南丹市)の両群には弓術に秀でた人が多く、時代祭創設当初から子孫有志が行列の警護役として参加しています。