愛情表現はキスだけでない。—品のよさが、かいまみえるとき、人は魅了されます。
積極的に押し出すばかりが愛の告白ではありません。控えめで、気のきいた演出は、
相手の心をしっかりとらえるのです。
感情表現でも、洗練されるほどに抑制がきいてくるものです。京都の人があけすけに
ふるまうことを下品なことと受け止めるのも、こうした思いがあるからです。
ある綴れ織の伝統工芸の方を思い出します。七五歳で亡くなられましたが、
六〇年の間明けても暮れ ても綴れ織の機を織り、そのために背中は丸くなっておりました。
すばらしいものを生み出す寡黙なその人の背中には、彼の人生が集約されているようにうつったものです。
その方から、わたしは和歌に詠まれた恋文をいただいたことがあります。わたしへの励ましか、
もしくは「わしも和歌ぐらいはつくりまっせ」という しゃれのつもりかと、そのときは真意を測りかねました。
でも、そのあと友禅の展示会場で「せんせ、詠んでおくれやしたか」と聞くのです。
本心からの恋 文だったのです。わたしも尊敬していた方ですし、とてもうれしく思いました。
すばらしい和歌でした、とお礼を申し上げたのですが、でもそれ以上はなにもいえませんでした。
もうひとり、親しくしていたある会社の会長さんのことです。 経済人としては一流、ご高齢の、
とても教養のある方でした。あるとき「お願いがある」というので、改まってなに事かなと思いました。
でも、いつもの陽気な調子で「なんぼでもききますえ」と答えたら「冗談やない」と、
真顔になり「君の長襦袢姿を見せてほしい」、そういわれるのです。なんておしゃれなのでしょう。
あの人なら、本当に長襦袢姿を見るだけで終わったと思います。ひきょうに抱きしめたりする人ではありません。
それが、せいいっぱいの告白だったと思います。
おふたりとも、もう天の人ですから、わたしがこんな話をしても許してくださるでしょう。
老いてからの恋というのはみやびなものです。押しつけがましくなく、紳士的です。
長襦袢のことですが、わたしはなんとおことわりしたのか、はっきりと思い出せな いのですが、
会長さんのお葬式の日に「お見せしておけば、よかったかなあ」と、今でも後悔しています。
「またいつかね」などと軽い答え方はしていないはず。
でも、その答え方によって、わたしが上等な女かどうかが問われるのです。
あんまり上等な女ではなかったような気もするのですが・・・。
市田ひろみ著「ええ女の作法四十四の極意」より