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♪京都~大原 三千院、 恋に疲れた女がひとり♪
永六輔作詞、デユーク・エイセスの「女ひとり」の歌い出しです。
この部分だけは歌えるという人、結構多いのでは?
(ちなみに、2番目は「京都~栂尾 高山寺」、3番目は「京都~嵐山 大覚寺」で始まるんですよ。知ってました??)
という事で、歌の通り、まずは三千院に向かう事にします。
割と勾配のある川沿いの道を、勢いをつけて昇っていきます。
緑の滝の様に折り重なる青もみじ。
取材時は、初夏を連想させる程の良いお天気。
少し息が上がってきて、汗ばんできました。
よしずに打ち水が、暑さを和らげてくれます。
初めて大原を訪れた時は、もっと山里の風景を連想していましたが、
思っていたよりもお店があちこちに並んでいて、ここもやはり観光地だという事を実感しました。
天台宗五箇室門跡に数えられ、皇族出身者が住持してきた宮門跡とあって、堂々たる門構え。
客殿から眺める池泉鑑賞式の庭園・聚碧園は、ここの自然美に感動したという江戸時代の
茶人・金森宗和が手を加えたといいます。
やわらかく、優美な茶風で京の公家たちに愛されたという宗和の好みが反映しているのかもしれません。
音無しの滝からの清流が、この池に注ぎ込んでいます。
円融房にて。無料だったのでお写経をさせて頂きました。こんなに早く終わっちゃっていいのかな?
往生極楽院を臨む池泉回遊式庭園・有清園。
大原と言えば、三千院と言えば、この景色を連想する人が多いかもしれませんね。
天まで突き抜けて行くような杉木立。
その間から差し込む光に青もみじが明暗を分けています。
苔の大海原が一面に広がります。
よく見るとお地蔵さんらしき頭が…。まるで砂風呂に入ってらっしゃるかのようです。
こちらは可愛らしく合掌しておられます。
どこを見回しても緑一色。普段の生活の中で自然にすっぽり包まれるなんて、余り無い事ですよね。
夏は紫陽花、秋は紅葉の名所として、多くの人が足を運ぶのも頷けます。
広大な庭を回遊するかのように幾つかお堂が立っていますが、
そのうちの一つの受け付けではお坊さんが気持ちよさそうに居眠りしていました。
こんな良いお天気とそよ風が吹き抜ける静けさの中だったら、無理もありません。
別のお堂では、若い女性が一人のお坊さんと向き合って占いをしてもらっていました。
彼女の相づちを聞いていると、割と当たっているようです。
次に診てもらおうと思いましたが、しばらくかかりそうだったので、またの機会に。
入り口にお花が生けてあり、お出迎えされたみたいでちょっと嬉しい。
♪スキマ情報♪
かつて、秋の夜間特別拝観で訪れた時にはものすごい行列で、寒空の下を長い間待ちました。
帰りのバスが無くなるためか、途中で諦めて帰って行く人達の姿もあったので、
遠方からお越しの方は、夜間特別拝観の場合は早めの時間に訪れる事をおすすめします。
今回は並ぶ事も無く入る事ができました。
廊下の天井に掛けられている籠。昔のお偉いさんが来た時の名残でしょうか?
この先にある額縁庭園と呼ばれる「盤桓園(ばんかんえん)」が有名ですが、
手前の囲炉裏の部屋に思わず目が釘付けに。
よく磨かれた床板に新緑が移り込み、山の斜面に面したお庭からは水音が聞こえていました。
客殿では、既に何組かの人達が銘々に景色を楽しんでいます。
客殿の西。柱と柱、屋根と敷居に囲まれた空間を、額縁の中の絵画の様に見立てて鑑賞する。
これが額縁庭園たる所以です。
樹齢700年の五葉松は京都市指定の天然記念物。近江富士を型どっているそうですが、
それっぽく撮れたかな?大きすぎてカメラのファインダーに収まりません!
ころころと、心地良い水音の正体はこの手水鉢でした。
この下に「理智不二(りちふに)」と名の付いた珍しい二連式の水琴窟が埋まっていて、
竹筒に耳を近づけてその音色を聴きます。
さて、その響きはそれぞれ違う?それとも同じ?
額縁庭園と共に有名なこちらの「血天井」。
この天井を染めた武将達の霊は、大原の自然に囲まれて、慰められたのでしょうか?
サヌカイトといわれる石で作られた石盤。
なぜこんな所に楽器?と思いましたが、声明で音律を調べるために使われたのだそうです。
仏教の儀式音楽。法会の際に、僧によって唱えられる声楽です。
修業のひとつとして仏、菩薩、神々を賛美する歌曲が各宗派で作られますが、
大原は天台声明の聖地、魚山声明(大原声明。
魚山という名は中国仏教の声明聖地から)として知られるようになりました。
大原の地には呂川(りょせん)と律川(りつせん)が流れていますが、
声明の呂(呂旋法)と律(律旋法)に因んでそう呼ばれており、呂と律が上手く使い分けられない、
つまり「呂律(ろれつ)が回らない」という言葉はここから来ているのです。
また、声明は日本の歌曲の原点として大きな影響を与えました。
今様、平家琵琶、謡曲、浄瑠璃、小唄、長唄、浪花節、民謡、演歌等の中にもその流れが生き続けています。
宝泉院のH.Pからも聴く事ができます。
ふと、一人で腰を降ろしていた若い男性が客殿を出て、先程の誰も居ない囲炉裏の部屋の縁側に腰を降ろしました。
レザーのジャケットを着て、片手にはヘルメット。ここまでバイクに乗って来られたのでしょう。
その人はしばらく外を眺めていましたが、人の出入りが多くなってくると、すっと静かに立ち去って行きました。
先程素通りしてしまった勝林院ですが、こここそが天台声明の発祥の地、
大原魚山流声明の根本道場なのです。
周辺の宝泉院や実光院等は、勝林院の中にある僧坊に当たります。
1186年、天台宗の顕真が浄土宗開祖・法然を当院に招き、宗論を戦わせたという「大原談義(大原問答)」の舞台です。
「南無阿弥陀仏」と数多く唱えることで、身分や性別の区別無く西方極楽浄土へ往生できるという
「専修念仏」についての問答の際、ここの本尊が手から光明を放ち、
念仏の衆生済度の証拠を示した事から、「証拠の阿弥陀」と呼ばれたとか。
ここも苔の美しいお寺です。
屋根の裏側の浮き彫りにも注目するようにと、足元に張り紙がしてありました。確かに見事です!
享保21(1736)年に火災にあったという勝林院の建物は、当時は春日局の願いによって
崇源院(徳川秀忠夫人・家光の生母)の菩提寺として再建されたものだったそうですが、
この彫刻もあったのでしょうか?
以前ここを通りかかった時、声明が聴こえたので、「やった!生で声明が聴ける!」
と慌てて本堂に入ったら、テープの音声だったという事がありました。
実際にお坊さん達が唱えているタイミングにうまく遭遇できたら、
本堂の中を声明がこだまして、きっと感動してしまうでしょうね。
さて、最後の目玉として、お寺やお店が集中している東側のエリアとは
国道367号を挟んで反対側にある寂光院へと向かいます。
約 15分程歩き続けましたが、途中で見かけた農家の軒先で、
おばあさん達がのんびりと話をしている光景や、まるで鏡の様に水面に空を映し出す田んぼ等、
里山の風情が続きます。旅先ながら、懐かしさを覚える人もいるでしょうね。
道中のツツジも瑞々しく、清らか。
寂光院を訪れる建礼門院の姿を月光が映したという朧の清水。
朧とは、春の月光のこと。
♪建礼門院って誰?♪
平清盛の次女で、母や息子の安徳天皇は壇ノ浦の戦いで入水。
生き残った徳子(建礼門院)は京都へ送還され、
尼として大原の寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って余生を終えました。
『平家物語』のヒロイン的存在です。
火災で真っ黒に炭化した旧本尊は、今も重要文化財の指定を外される事なく、
春と秋に特別公開されています。
宝物殿に展示されていた2000年5月9日付けの新聞の記事に釘付けになってしまいました。
記事の写真には、消火活動を心配そうに見届ける当時のご住職の姿が。
何百年もの歴史を積み上げたものを、一瞬にして焼き尽くす炎を前に、
ただ見守るしかできない心中はどのようなものだったでしょう。
炎上する本堂から消防士に抱かれるようにして運び出される本尊の写真は、
まるで黒焦げの人間の遺体のように見えてしまい、思わず目頭が熱くなりました。
事件当時、同じこの記事を見た事があるはずなのに…。
屋根が崩れ落ちるなか、唯一、本尊の地蔵菩薩だけが全身を焦がしたまま毅然と立っていました。
信仰は、形ではない。
これしきのことで、仏の慈悲は失われたりはしない。
地蔵菩薩が自らの身をもって示しているかのようにも見えます。
この事件を機に、今までにあちこちのお寺でご本尊にお尻を向けては庭の写真を撮るのに夢中になっていた人達も、
寂光院に限っては、新しいご本尊をまじまじと見つめるようになったのではないでしょうか。
この放火事件は、2007年5月9日をもって時効を迎えました。
しかしながら、仏という存在は、その犯人の行いさえも許してしまうのでしょう。
青いもみじの下を清流が流れる水音の傍らで、しば漬け売りのおばちゃんとやり取り。
木々の合間から今にも声明が聞こえてきそうな、苔の海と寺院の風格ある佇まい。
自然と人の営みが溶け合う大原は、山里の素朴なのどかさを味わえる場所でした。