本名は不明(一説には「香子」とも)。 女房名は「藤式部」で、「紫」は『源氏物語』の作中人物「紫の上」から、 「式部」は父が式部大丞だったことに由来しています。 「女房」とは、職場に「房」という個室を与えられているキャリアー・ウーマン的な存在で、 つまり「紫式部」とは、『紫の物語』を描いた「式部省」のゆかりの人、という呼び名です。 現在の廬山寺の辺りに住み、幼くして母を無くしたともいわれています。 幼少の頃より漢字の素養があり、才女ぶりが伺える逸話を残しています。 20代後半で20歳近く年上の藤原宣孝と結婚後するも、早くして夫と死に別れ、 藤原道長の娘で一条天皇の中宮・彰子に女房・家庭教師役として仕えました。 その頃から源氏物語を創作し始めたとされています。 源氏物語の他には、「紫式部日記(紫日記)」「紫式部集」が知られています。 |
■「世界の偉人」としてユネスコ登録されている!
紫式部は、日本人唯一の「世界の偉人」の一人として、
1965年にユネスコ(国連教育科学文化機関)に登録されています。
まさに世界レベルの文豪!?
日本の紙幣のデザインに採用されるのも頷けますね。
■多くの勅撰集歌人を輩出した家系の娘
紫式部の父・藤原為時は越前守や越後守を務め、一条天皇の時代の代表的な詩人でもあり、
漢詩文に才能を発揮し、新古今和歌集にも選集されています。
母もまた、勅撰歌人だった藤原文範(ふみのり)の孫であったといいます。
また他の曽祖父には、古今和歌集・小倉百人一首に選集される藤原定方と、三十六歌仙の一人であり
古今和歌集に選集される藤原兼輔がおり、また紫式部は娘の賢子と共に勅撰歌人で、
二人とも「百人一首」に選集されています。
他にも、たくさんの親族が勅撰集歌人として紫式部の家系に連なっています。
紫式部は、文学を学ぶ環境に恵まれていたのではないでしょうか。
ちなみに、『小倉百人一首』に入選した紫式部の歌は、
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」です。
■中級貴族として観察力を発揮
紫式部は、中級貴族の家に生まれたことで、自分より身分の上の者から下の者まで広く精通し、
感性豊かな人物に育つ素地があったとも言えます。
■記憶力・理解力が抜群!
幼い頃に兄弟の惟規(のぶのり)が父から漢籍を教わっているのを横で聞いていた紫式部は、
彼よりも早くすらすらと覚えてしまいました。
平安時代の公文書は漢文を使うために漢文の力は出世に結びつくと考えられていたため、
父親はいつも紫式部が男の子であれば良かったのに…といつも嘆いていたといいます。
■他府県に住み、更に視野を広げる
父親と地方の任国で暮らした経験があり、そのためか「源氏物語」に登場する舞台では
京都以外にも兵庫県や滋賀県にも及んでおり、物語の展開に広がりがもたらされました。