『宇治拾遺物語』によると、最初は、「具足小路」という名前だったようです。
「具足」とは、家具や調度類のこと。
現在の名称になったのは、当時の帝(村上天皇もしくは後冷泉天皇か)が四条通りの南側にある綾小路に対して「錦小路」と改められたためと言われています。
江戸初期には幕府より魚問屋の称号が許され、後に椹木町通りの上之棚、現在の六条通りの五条之棚と共に「京の三店(さんたな)」と呼ばれ、大いに賑わいました。
また、野菜を栽培する近郊農家が参入し、魚や肉に青果と、現在の市場に近い姿となっていきます。
昭和の始めには京都中央卸売市場が開設され、錦の卸売業者の多くが移転しましたが、残った店と新規参入店が協力して組織を作り、卸問屋だけではなく、小売り専門の店舗も誕生しました。
錦小路の地下には豊富な水が流れており、冷蔵庫等が無かった時代には、その水で魚などを冷やしたりしていました。 |
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現在では協同の井戸として、私達が歩いているこの狭い通路の下に地下水用のパイプが通っているそうです。 |
祇園祭の御霊を載せた御神輿は3基あり、そのうちの西御座は主に錦市場の人々によって担がれているので、7月24日の還幸祭には神輿が錦市場の中を進みます。 とは言っても、八坂神社と錦市場とはちょっと距離が離れていますよね。 |