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織田信長の足跡を訪ねて

人間50年。下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。
天正10年(1582)6月2日 本能寺にて家臣の明智光秀公の謀反により奮戦空しく
その波瀾にみちた49年の生涯を自ら絶たなければならなかった戦国時代の風雲児織田信長公。

幼少の頃はうつけ者として数々のエピソードを残し桶狭間の戦いにより
一躍戦国時代の中心的な存在に。

比叡山焼き討ちなど、時には狂気を孕んだ行動も起こしたが、
その卓越したリーダーシップと、革新的かつ独創的かつ合理的な決断力と行動力とで、
天下統一を推し進めた。

今なお尊敬する歴史上の人物ナンバーワンとして、絶大な人気を誇っているという。
現代においても人を惹き付けるその魅力とはなにか?

さまざまな伝説とともに、信長公が残した足跡はここ京都に数多くあるが、
今回は信長公終焉の地本能寺をはじめとする信長公の墓碑を中心に、訪ね歩いてみた。

  
おすすめコース


クリックすると拡大地図になります。
地下鉄四条駅
阪急烏丸駅
  ↓(徒歩7分)
南蛮寺跡
  ↓(徒歩5分)
本能寺跡
  ↓(徒歩5分)
堀川蛸薬師
バス停
  ↓(市バス101系30分)
大徳寺前バス停
  ↓(徒歩10分)
建勲神社
  ↓(徒歩15分)
大徳寺総見院
  ↓(徒歩10分)
立木庵
  ↓(徒歩1分)
大徳寺前バス停
  ↓(市バス205系20分)
葵橋西詰バス停
  ↓(徒歩5分)
阿弥陀寺
  ↓(徒歩5分)
童夢
  ↓(徒歩5分)
河原町今出川バス停
  ↓(市バス205系10分)
京都市役所前バス停
  ↓(徒歩3分)本能寺
  ↓(徒歩3分)地下鉄
市役所前駅

南蛮寺跡(なんばんじあと)

地下鉄四条駅を出て、烏丸通りを北(御所の方向)へ向かう。蛸薬師通りを西(左折)へ。

ビルの入り口片隅にひっそりと石碑が建っている。
自転車やバイクに埋もれているが、南蛮寺跡と書いてあった。

解説板を読むと、秀吉公によって弾圧され破壊された・・・とのこと。
信長公が本能寺の変で亡くならなければ、この南蛮寺はどうなっていただろう?ふと考えてしまった。

~南蛮寺跡~
永禄4年(1561)イエズス会宣教師ヴィレラが信長庇護の下、教会を建てたところ。
以後、京での布教活動および南蛮文化の中心となり、その後、天正15年(1587)九州征伐を終えた豊臣秀吉公は宣教師追放令を発し、キリスト教弾圧に転じこの南蛮寺も姿を消した。

住所:中京区室町通蛸薬師西入ル

石碑のみが建つ南蛮寺跡

本能寺跡(ほんのうじあと)

南蛮寺跡を後にして、蛸薬師通を更に西へ向かう。
途中道幅が狭くなり、まるで路地裏のようだが、通りすぎる車が驚くほど多い。
5分ほど歩くと左手に古い小学校が・・・角にはぽつんと「本能寺跡」と刻まれている石碑。
通りすぎて校舎の正門に回ると、正門右横に大きな碑があり、信長公を偲ぶ言葉や、本能寺の変の経緯が書かれていた。

ここが信長公が明智光秀の謀反により、火を放ちその中で自刀したところか・・・

49歳の志半ばにて閉じられた生涯。思わず両手を合わさずにはいられなかった。石碑の側には真っ赤な椿が咲いていた。

~本能寺跡~
京都において織田信長公の宿所とされていた。
天正10年(1582)6月2日早暁、世に言う「本能寺の変」により堂塔を焼失する。
そののち現在の地(寺町通御池)において、再建された。

住所:中京区蛸薬師油小路下ル

本能小学校正門横の本能寺跡碑。
本能寺の変はここで起こった。

角にぽつんと本能寺跡碑。

建勲神社(けんくんじんじゃ)

本能寺跡から再び蛸薬師通を西へ向かうと堀川通にぶつかった。
ここからバスで信長公が御祭神の建勲神社お墓がある大徳寺塔頭総見院へ向かう。約30分バスに揺られ大徳寺前で下車。

まず最初に建勲神社を訪ねることにした。
大徳寺を右手に見ながら10分ほど歩けば、建勲神社の表参道大鳥居が見えてくる。中に進むと五穀豊穣織物工芸の稲荷信仰の発祥となる義照稲荷神社が左手にあり、長い石段を登っていくと建勲神社の境内へ・・・。

信長公が好んだ「敦盛」の句が刻まれた石碑を見つけた。
さらに石段を登っていくと拝殿があり、そのまた奥に本殿がある。
鬱蒼と茂る木々に囲まれ、シーンと静まり返っている本殿は、まるで孤高の信長公のように凛として建っていた。

建勲神社
豊臣秀吉公による大徳寺においての大法要ののち、
信長公の霊を慰めるべく船岡山に寺を建てんとして時の正親町天皇より天正寺の寺号を賜るが、寺の竣工は中途に終わった。が、爾来船岡山は信長公の霊地として大切に保護され明治維新に至る。
明治8年明治天皇によりここ船岡山に御祭神に織田信長公を奉る神社が創建された。

住所:北区紫野北舟岡町49番地
TEL:075-451-0170
拝観時間:日中随時
拝観料:志納

建勲神社拝殿から本殿を臨む

信長の好んだ「敦盛」の一節

大徳寺総見院(だいとくじそうけんいん)

建勲神社から大徳寺まで今歩いた道を再び歩く。
大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、千利休自決の原因となったと言われる
「金毛閣」と呼ばれる重要文化財の三門が有名な所だ。北大路通に面している南門から中へ・・・
境内にはたくさんの塔頭があり驚くほど広い!すぐに境内見取り図を確認。
総見院は境内の奥のほうか・・・。

総見院境内の一番奥に、墓碑案内図どおり大きな台座に信長公一族の7基の五輪石塔が並んでいた。いやその右隣にもう一つ別の台座に1基建っている・・・。
お寺の方に伺ってみると、家康公の悲劇の長男信康に嫁いだお姫様徳姫のものだという。「なんで同じ台座ではないのですか?」と訪ねると、
「きっとその時代は女性と男性とは一緒に並ぶことができなかったんでしょうね」と・・・。
少し離れたところに正室の帰蝶(お濃)や側室お鍋の方の墓碑もぽつんと建っている。あらためて信長公を取り巻く女性達の生き方に思いをめぐらせ、総見院を後にした。

大徳寺では基本的に常時公開されている塔頭は4寺院だけで、総見院も普段は入ることができないという。今回はもちろん一般公開時期に合わせて訪ねたが、広大な境内をゆっくり散歩するだけでも充分楽しめる。

~総見院~
本能寺の変より百日後の10月11日、大徳寺に於いて織田信長公の大葬礼が、盛大に執り行われた。喪主は信長公の遺子で、秀吉公の養子・秀勝公が努めた。
その翌年の天正11年(1583)信長公の一周忌に間に合うようにと秀吉公が建立したのが総見院である。

開祖は千利休を通じて秀吉公の尊信を受けていた古溪和尚。
以来6月2日の信長公の年忌には、一山総出で法要が行われた。
境内には、信長公一族の7基の五輪石塔が並び本堂には、衣冠帯刀姿の信長公の木坐像が安置されている。
また秀吉公遺愛のものとして伝えられ、日本古来のものと思われる樹齢約400年の侘助椿も有名である。

住所:北区紫野大徳寺町
TEL:075-491-0019
時間・料金:園内自由
拝観:毎年10月第1日曜日から12月第1日曜日の
        10時~16時までに限り一般公開。
(普段は非公開)
拝観料:600円

総見院は毎年10月第1日曜日〜
12月第1日曜日に公開されている。

総見院の信長の墓。

少し離れた所にある徳姫の墓
※このページの掲載情報は、取材時のものであり、現在のもの、歴史上の事実とは異なる場合がございますので、ご了承下さい。参考としてご覧頂きますようお願い申し上げます。

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