人 名 | 生没年 | 説 明 |
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菅原道真 | 845-903 | 平安時代前期の学者・文人・政治家。正二位。右大臣。是善の子。幼名阿呼。菅公と称された。宇多天皇の信任厚く、藤原氏を抑えるために重用された。18歳で文章生。33歳で文章博士に。36際私塾・菅家廊下を継承。42歳の時讃岐の国司赴任。4年後に帰国すると宇多天皇の下、昇進を重ねた。894年、50歳の時、遣唐大使に任ぜられるが、廃止を提案し、受け入れられる。901年、藤原時平の讒言により太宰権帥に左遷され、903年、失意のまま亡くなった。死後、天変地異やライバルの早世が相次いだため、怨霊として恐れられ、後世、天神として全国的に信仰されるようになった。編著『日本三代実録』『類聚国史』『新撰万葉集』漢詩文集に『菅家文草』『菅家後集』などがある。 |
宇多天皇 | 67-931 | 第59代天皇(位887-897)光孝天皇の第7皇子。母は班子女王。887年、藤原基経の推薦で即位し、阿衡(あこう)事件を起こしたが、基経の死後は関白を置かず、菅原道真を抜擢するなど、藤原摂関政治の中にあって政治の刷新に努力。その治世は後世寛平の治と言われた。譲位の際醍醐天皇に与えられた「寛平御遺誡」は有名。後、出家して法皇となり、仁和寺に移った。日記に「宇多天皇御記」がある。墓は京都大内山陵。 |
藤原時平 | 871-909 | 関白藤原基経の子。左大臣正二位。菅原道真を廃して太宰の権帥に左遷し、藤原氏の地位を確立した。902年、最初の荘園整理令を発し、12年1班の班田収受制を施行するなど律令制の維持に努力した。「日本三代実録」「延喜式」の作成撰修に参画。909年、39歳の若さで病死した事は道真の祟りと言われた。 |
紀長谷雄 | 845-912 | 平安時代前期の漢学者。早くに文章生となり、890年、図書頭を経て文章博士、大学頭となる。後に従三位中納言に登った。菅原道真にその才能を買われ、道真の建議で廃止された最後の遣唐使には副使に名を連ねていた。895年、道真と共に渤海客使を饗応。『延喜格式』の編纂にもあたり、漢詩文集に『紀家集』がある。 |
三善清行 | 847-918 | 平安前期の漢学者。善相公とも言われた。巨勢文雄に学び、900年、文章博士兼大学頭となった。詩文に巧みであった他、明法、算道にも明るく、905年以来、藤原時平と共に『延喜格式』の編集に参加。『円珍伝』『藤原保則伝』『善家秘伝』など著書も多い。914年醍醐天皇に「意見封事12か条」を奏上したことは有名。900年、道真に辞職勧告の書を提出している。 |