蒙古襲来をテーマにした2001年の大河ドラマ『北条時宗』はとてもスケールが大きい。舞台も鎌倉、博多、海の向こうは蒙古、高麗まで広がっている。果たして京都は出てくるのだろうか? 主人公の時宗自身は、幼い頃、父・時頼と旅の途中に、九条家の墓のある東福寺に立ち寄ったくらいだったが、準主役の時宗の庶兄・時輔(ときすけ)が六波羅探題南方に追放されたことをきっかけに、京都も舞台の一つとしてクローズアップされてきた。「御所言葉」を自在に操る公家達も相当なインパクトを与えている。 今回の歴史散歩では、時宗の兄・時輔ゆかりの地を中心に京都の史跡を巡ってみることにした。 |
時宗紀行 | 人名事典 | その他の史蹟 |
年表 | 系図 | リンク・文献 |
北条氏 |
人 名 | 生没年 (在任年) |
説 明 | 関連史蹟 |
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北条時宗 (ほうじょう ときむね) |
1251-84 (執権1268-84) |
第8代執権。時頼の子。母は北条重時の娘。時輔の弟。幼名正寿。通称相模太郎。法名道杲。1256年、時頼の出家によって家督を譲られるが幼少のため、執権は長時が就任し、連署に。1269年執権就任。1272年の二月騒動で庶兄の時輔を討つ。1274年と81年に二度の元寇を経験しながらも幕政の安定に努めた。臨済宗に深く帰依し、無学祖元を開山に円覚寺を開いた。享年33歳。 | 東福寺 |
北条時輔 (ほうじょう ときすけ) |
1248-72 (六波羅南方 1264-72) |
時頼の長男。時宗の異腹の兄。母は讃岐局。妻は下野の小山氏の女。幼名宝寿。初名は時利。1261年、時頼に兄弟の順を改められ弟の時宗の下に位置することになる。時頼の死後、六波羅探題南方に任ぜられ、京都に赴き、朝廷と幕府の交渉に尽力。1272年、時宗の命を受けた六波羅北方・義宗に討たれる。(二月騒動)。享年25歳。 | 六波羅南方跡 六波羅探題跡 東福寺六波羅門 |
北条時頼 (ほうじょう ときより) |
1227-63 (執権1246-56) |
第5代執権。相模守。正四位下。父は時氏、母は松下善尼。時輔、時宗兄弟の父。執権就任とともに前将軍・九条頼経をめぐる陰謀を事前に押さえ、翌年三浦氏を滅ぼす。(宝治合戦)。1249年引付衆を置いて裁判の公正化を図るなど幕政安定と北条氏の独裁体制確立に尽力。民政にも心を砕き、諸国巡回視察伝説を生む。 | 東福寺 |
北条義宗 (ほうじょう よしむね) |
1253-77 (六波羅北方 1271-76) |
6代執権長時の子。1971年六波羅北方に就任。72年、時宗の命を受け六波羅南方の時輔を討つ。76年、鎌倉に戻って評定衆となるが翌年死去。享年25歳。 | 六波羅探題跡 建仁寺勅使門 |
北条時章 (ほうじょう ときあきら) |
1215-72 (六波羅北方 1271-76) |
名越流朝時の子。評定衆・引付頭人を歴任。1272年のニ月騒動で弟教時が時輔寄りだったため、間違えて討たれる。 | |
北条教時 (ほうじょう のりとき) |
12?-72 | 越流朝時の子。1272年のニ月騒動で時宗を廃し、時輔を執権に据えようとしたとして討たれる。 | |
北条時茂 (ほうじょう ときしげ) |
1240-70 (六波羅北方 1256-70) |
6代執権長時の弟。16歳で六波羅北方に就任して以来、朝廷との折衝に苦労する。31歳で六波羅在任中に亡くなる。 | 六波羅探題跡 建仁寺勅使門 |
天皇家・公家・将軍 |
人 名 | 生没年 (在位・在任年) |
説 明 | 関連史蹟 |
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亀山天皇 (かめやま てんのう) |
1249-1305 (1259-74) |
第90代天皇。後嵯峨天皇第4皇子。母は西園寺実氏の娘大宮院吉子。退任後13年間上皇として院政を行う。蒙古襲来の際には石清水八幡宮や筥崎宮などに異国降伏を祈願した。1289年出家。91年離宮を南禅寺とした。陵墓は京都の亀山陵。 | 京都御所 石清水八幡宮 |
後嵯峨上皇 (ごさが じょうこう) |
1220-72 (1242-46) |
土御門天皇の第1皇子。母は源通子。在位4年で第3皇子後深草天皇に譲位。以後17年間院政をしく。第4皇子亀山天皇がお気に入りで皇位につけようとし、持明院(後深草系)統と大覚寺(亀山系)統両統対立の原因を作った。陵墓は京都嵯峨南陵。 | 京都御所 |
近衛基平 (このえもとひら) |
1246-68 (関白1267-68) |
10歳から日記『深心院関白記』をつけ始める。14歳で近衛家を継ぎ、22歳で関白就任。蒙古問題で心を痛める。1268年、23歳の若さで病死。墓は北区の一様院。 | 近衛邸跡 一様院 |
九条頼経 (くじょう よりつね) |
1218-56 (将軍1226-1244) |
第4代将軍。2歳の時に母が源頼朝の姪だったことから将軍に迎えられ、鎌倉に入った。1226年元服して征夷大将軍に任じられる。(摂家将軍)次第に反得宗の側近集団が形成されるようになり、1244年、執権経時に迫られ、将軍職を子の頼嗣に譲った。1246年の騒動に際し、京都に送還された。 | 東福寺 |
九条頼嗣 (くじょう よりつぐ) |
1239-56 (将軍1244-52) |
第5代将軍。1244年6歳で元服し、征夷大将軍に。1251年、九条御堂の僧了行が幕府転覆を謀った事件に九条家が加担したとの嫌疑がかかり、将軍を配され、京都に戻った。 | 東福寺 |
【僧】 |
人 名 | 生没年 | 説 明 | 関連史蹟 |
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日蓮 (にちれん) |
1222-82 | 日蓮宗の開祖。『立正安国論』を著して執権時頼に提出。1271年に幕府に捕らえられ、佐渡へ流される。1274年に許されて鎌倉へ帰るがすぐに甲斐へ隠棲。下級武士や庶民層の信者を獲得している。 | |
一遍 (いっぺん) |
1239-89 | 時宗の開祖。伊予の豪族の子。善光寺、高野山、熊野などで修行を積む。全国を回り踊り念仏を広めた。武士、農民、漁民などから幅広く信仰を集めた。生涯を描いた『一遍上人絵伝』には北条時宗との出会いの場面がある。 | 長楽寺 |
栄西 (えいさい) |
1141-1215 | 臨済宗の開祖。1168入宗し、禅を学んで帰国。お茶も持ち帰る。三宗(天台・真言・禅)一致の寺として京都に建仁寺を建立。著書に『興禅護国論』『喫茶養生記』など。 | 建仁寺 |