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平家物語 人名辞典

『平家物語』には平氏・源氏・皇族・女性・僧侶など
多くの人物が登場します。
今回は「歴史コース」で取り上げた人物中心にご紹介致します。
東山散策 嵯峨野散策 その他の史蹟 人名辞典
年表1/年表2 系図 関連リンク・ 文献  

人  名 生没年 説  明 関連史蹟
安徳天皇
(あんとくてんのう)
1178
~1185
1180
~1185位
治承2(1178)年、高倉天皇の第一皇子として誕生。母は平清盛の娘・徳子(建礼門院)。生後1ヶ月で皇太子となり、治承4年4月、清盛の計略により、わずか3歳で即位。同年6月、福原に遷都したが11月、京都に戻った。寿永2(1183)年、7月、平宗盛に擁せられ神器と共に西海へ。大宰府、屋島と転々とした。文治元(1185)年、3月、平氏滅亡の時、祖母・二位の尼に抱かれて壇ノ浦の海に沈んだ。わずかに8歳。墓は下関の阿弥陀寺陵とされているが、遺体が見つからなかったため。
脱出・生存説も流れ、西日本各地に安徳天皇の墓と言われる場所がある。
長楽寺
祗王
(ぎおう)
?~? に聞こえた白拍子(男装で歌舞する遊女)の名手。平清盛に寵愛され、西八条邸に住んだが、若い白拍子仏御前の出現で寵愛薄れ、母・妹と共に嵯峨野に隠棲。仏御前を慰めるために清盛に呼びつけられて後、21歳で出家。念仏三昧の生活を送り、往生を遂げたという。 祗王寺
若一神社
祇園女御
(ぎおんのにょうご)
?~? 白河法皇の愛人の一人。祇園社のそばに住んでいたことからこの名がついた。白河法皇の子を宿したまま、平忠盛に下賜され、産まれた子供が清盛だと言われているが、実際には彼女の妹が清盛の母とも。その出自は謎に包まれている。 祇園女御塚
忠盛灯篭
祗女
(ぎじょ)
?~? 祗王の妹の白拍子。姉の寵愛に伴い、清盛から沢山の仕送りを受けていた。姉の寵愛が衰えると姉妹は母と共に嵯峨野に隠棲し、念仏三昧の生活を送った。出家時は19歳。 祗王寺
木曽義仲
(きそのよしなか)
1154
~1184
源義賢の次男。源頼朝の従兄弟。母は遊女。1180年、以仁王の令旨に従って北陸道から入京。平家・頼朝と共に全国を三分した。『平家物語』には「田舎者」として描写される場面が多いが、「朝日将軍」と言われるほどの勢いを持っていた。後白河法皇と反目し、義経らに攻め込まれ、近江粟津で敗死した。首だけが京都でさらし首にされ、後、従者が八坂郷に埋葬したという。 法観寺
建礼門院徳子
(けんれいもん
いんとくこ)
1155
~1213
平清盛の次女。高倉天皇の中宮。安徳天皇を産む。都落ちに同行し、壇の浦で安徳天皇を追って入水するが、源氏に助けられる。京に戻って、長楽寺で剃髪。平家を弔い余生を大原寂光院で送る。後白河法皇が大原を訪ねた時、「六道を見ました」と供述した平家の栄枯盛衰を体験してきた女性。「平家物語」では、1191年、35歳で亡くなったとされるが、実際には58歳まで生きたそうだ。墓は寂光院の隣の大原西陵。 長楽寺
寂光院
建礼門院陵
小督
(こごう)
1155
~1213
宮中一の美女で琴の名手。祖父は信西。父は藤原成範。清盛の娘の建礼門院に仕えていた。年下の高倉天皇の寵愛を受けるようになるが、それ以前は藤原隆房(清盛の五女の夫)の恋人でもあった。二人の婿を取られたと、清盛の怒りを買い、嵯峨野に隠棲。つつましく暮らしていたが、琴の音を聞いた源仲国に見つけ出され、天皇の元に帰った。以前以上に寵愛され、天皇との間に女の子が生まれるが、再び清盛に見つけられ、23歳の時、無理矢理尼にさせられ、嵯峨野に住んだ。高倉院が亡くなった後は清閑寺で菩提を弔い、死後は高倉陵の隣に葬られたという。 小督塚
琴聴橋清閑寺
後白河法皇
(ごしらかわほうおう)
1127
~1192
1155
~1158位
鳥羽天皇の第四皇子。母は待賢門院璋子。1155年、即位したが、これが保元の乱の原因となりわずが3年で二条天皇に譲位。以後5代に渡って院政を行い、平清盛、木曽義仲、源頼朝らと手を組んだり、反目しあったりしながら源平の盛衰を見守りつつ、朝廷の存続を図った。盛んに造寺、造社、造仏を行い、今様を好み、『梁塵秘抄』の編纂にも当たる。建礼門院を寂光院に見舞った「大原御幸」は有名だが、当時の記録には記されていないという。墓は法住寺陵。 三十三間堂
法住寺
今熊野神社
城南宮
斎藤時頼
(滝口入道)
(さいとうときより
たきぐちにゅうどう)
?~? 平重衝に仕える滝口(御所の警備をする)の武士。西八条の花見の宴で建礼門院付の雑女・横笛に恋をするが父に交際を反対されて19歳で出家。嵯峨野の往生院で修行をするが、横笛に居場所を突き止められ、女人禁制の高野山に移る。横笛も出家したことを知って歌を詠み交わす。横笛の死後はますます修行に励み、「高野聖」と言われた。後に、平維盛を仏道に導いた。 滝口寺
俊寛
(しゅんかん)
?~1179 真言宗の僧で法勝寺の執行。後白河院の近臣として活躍。鹿ケ谷の彼の山荘で平家打倒の陰謀を図る。露見した後、仲間と共に鬼界ケ島へ流罪になる。徳子安産のための恩赦で仲間は罪を許され、帰国するが、俊寛だけは許されず、3年後、憤死する。その悲劇的な生涯は、後に歌舞伎や能の題材になった。 鹿ケ谷
満願寺
白河法皇
(しらかわほうおう)
1053
~1129
1072
~1086位
後三条天皇の第1皇子。母は藤原茂子。摂関家を押さえ、源氏、平氏を重用。譲位後、院政を開始した。愛人の祇園女御を妊娠したまま寵臣の平忠盛に下賜し、このこの時生まれたのが清盛だったと『平家』では語られている。1096年出家して仏教に熱心になり、法勝寺をはじめ、六勝寺を建立した。 法勝寺跡
忠盛灯篭
平忠盛
(たいらのただもり)
1096
~1153
平正盛の長男。清盛の父。冷静沈着な性格で白河院に重用された。化け物の正体を灯篭に火をつけようとした僧と見破ったことで、白河院お気に入りの祇園女御を下賜されたと言われる。山陽・南海の海賊を討って昇殿を許された。又、日宋貿易に関係して平氏繁栄の基礎を築いた。 忠盛灯篭
平清盛
(たいらのきよもり)
1118
~1181
は平忠盛。実父は白河院、母は祇園女御とも彼女の妹とも言われる。父の死後、武士団を率いて政界に進出。保元・平治の乱で対立勢力を一掃し、太政大臣となり、平氏政権を樹立した。一時病にかかり、出家したが、次女・徳子を高倉天皇に入内させ、天皇の外祖父となり、平家の黄金時代を築いた。『平家物語』では娘のライバルとなる小督を尼にしたり、若い女ができて寵愛していた祗王を捨てるなど、横暴を極めた姿が書かれている。急速に貴族化した平氏に反感を抱くものも多く、各地で反乱が相次ぐ中、熱病で亡くなった。 六波羅蜜寺
若一神社
三十三間堂
高倉天皇
(たかくらてんのう)
1161
~1181
後白河天皇の第四皇子。母は平時信の娘、建春門院滋子。仁安3年(1168)7歳で即位。中宮は平清盛の娘・徳子。学問・詩歌・音楽に優れ、穏やかな性格で『平家物語』では名君と称えられている。何故か小督・葵の前ら徳子の侍女にばかり恋をする。小督との恋は2度までも清盛によって引き裂かれ、悲嘆の中、わずか21歳で崩御した。墓の東山の後清閑寺陵は小督の墓と並んである。 清閑寺
小督塚
那須与市
(なすのよいち)
?~? 下野の国出身の弓の名手。源平の合戦では源義経に着いて戦い、平家方に掲げた扇の的を射て源平両軍の賞賛を浴びた話は有名。戦いの後、即成院で出家して戦死した人々の菩提を弔ったという。墓は即成院に巨大な石塔がある。 即成院
仏御前
(ほとけごぜん)
?~? 加賀の国出身の白拍子。西八条邸を訪ね、清盛に舞を見せたところ、大層気に入られ、今までのお気に入りだった祗王から寵愛を奪った形になった。後に世の無常を感じ、17歳で剃髪し、祗王らのいる嵯峨野の草庵を訪ね、共に念仏三昧の生活を送った。 祗王寺
若一神社
源仲国
(みなもとのなかくに)
?~? 宇多源氏・源光遠の子。弾正官の次官。笛の名手。後白河院に仕えていた。高倉の命で嵯峨野にいるという小督を捜して、嵯峨釈迦堂、法輪寺などを捜し歩く。片折戸のある家の中から想夫恋をつまびく琴の音を聞き、以前合奏したことのあった小督の琴とわかり、御所に連れ帰ることに成功した。 琴聴橋
清涼寺
法輪寺
以仁王
(もちひとおう)
1151
~1180
後白河天皇の第2皇子。母は藤原の成子。母が摂関家出身ではなかったため、親王になれず王にとどまった。源頼政の勧めで平家討伐の令旨を出し、兵を挙げたが、平知盛らの追撃を受けて、園城寺に逃れた。興福寺に向かう途中、宇治の平等院で流れ矢に当たり、戦死した。 高倉邸跡
宇治橋
横笛
(よこぶえ)
?~? 建礼門院付の雑司女(下級の女官)。斎藤時頼と恋に落ちるが、彼女の身分が低いため、交際を反対され、恋人は出家。時頼を訪ねて往生院へ行くが、面会を拒まれ、奈良の法華寺で出家する。同じ仏に仕える身としてかつての恋人と歌を詠み交わすが、程なく法華寺で亡くなったという。 滝口寺

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※このページの掲載情報は、取材時のものであり、現在のもの、歴史上の事実とは異なる場合がございますので、ご了承下さい。参考としてご覧頂きますようお願い申し上げます。

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