安倍晴明を知る 1〜8
その2「幼少期のエピソード~悪食伝説~」
幼少の頃の安倍晴明は悪食でした。
「泉州信太森葛葉稲荷」に伝わる『泉州信田白狐伝』(せんしゅうしのだびゃっこでん)によると、
「ところがこの子にも妙な癖があった。地面の虫をとってしまうのである。
この悪食が一向に止まらない。」と書いてあります。
四歳の頃になると、晴明は、家でクモやゲジゲジを見つけると、口に入れ、田畑に出れば、
イナゴやムカデを食べていました。幼い少年は恐ろしいヘビを見てもまったく恐れなかったそうです。
このお話には、続きがあります。
幼い晴明の悪食ぶりを見た母親は、「このままでは、自分の正体が、狐だとばれてしまう、
そうしたら、晴明とも別れて暮らさなければならなくなる」と嘆きます。
晴明も自分の悪食のせいで、母親が悲しむのを見て、悪食を止めたというのです。
このエピソードから、「晴明は、幼い頃から、意思の強い子供だった」とか、
「これは、晴明が狐の子だった証明だ」などと述べている本がありますが、私はそうは思いません。
むしろ、晴明は、母親想いの優しい子供だったのではないでしょうか。
他にも晴明は、妻がおびえるからという理由で式神を一条戻り橋に隠しておいたというエピソードや
晴明の妻は見鬼だったので式神を嫌っていたからという説などが伝えられております。
幼い頃の母親想いの晴明といい、おびえる妻のために式神を隠す優しい晴明といい、
2つ共、晴明のフェミニストぶりが伺えるエピソードではないでしょうか?
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■大阪府・葛葉稲荷神社 |
■葛葉稲荷神社 |
その3「鳥の会話を理解した晴明」
さて、阿倍野にいた晴明が、どうやって京へ上り、陰陽師になったのでしょうか?
そのことを知る手がかりに、『安倍晴明物語』・『ほき抄』に伝わる1つの伝説があります。
『安倍晴明物語』によると、「ある日、晴明は、鳥たちの会話を聞いて、
京の天皇(醍醐天皇か、もしくは、村上天皇)が重い病気にかかっていることを知りました。
さらに、その原因が、一年前に造った寝殿にあることを鳥たちの会話から知り、
そのことを天皇に伝えるために京へ上った」とあります。
この話には、前ふりがあります。
「晴明が、まだ父と一緒に阿倍野に暮らしていた頃、神社の祭礼に行く途中、
子供たちがよってたかって一匹の白い蛇をいじめているのを見つけます。
彼が、蛇を助けてあげると、その蛇は、竜宮の乙姫の化身でした。
助けてもらったお礼に晴明は、竜宮に招待されます。乙姫から感謝の気持ちとして、
竜宮の秘宝「竜宮の秘符」と「青眼」(『ほき抄』では、石の匣(はこ)を土産にもらい、
鳥薬(うやく)を耳に塗ってもらったとあります。)をもらいます。
竜宮からもとの世界へ戻った晴明は、目と耳に入れた「青眼」のおかげで、
人間の過去、未来や鳥獣の声が理解できるようになっていました」
と、あります。そして、このお話は、天皇の病気を治す部分へと続くのですが、
蛇を助けたお礼に竜宮につれていかれる話は、なにやら、浦島太郎伝説とよく似ています。
違うのは、浦島太郎の場合は、土産にもらった玉手箱をあけると、
たちまちおじいさんになってしまいましたが、晴明は、土産にもらった「青眼」のおかげで、
陰陽師としての能力を授けられる点です。
「浦島太郎伝説は、安倍晴明の力の秘密を隠すために流した嘘の伝説だ」(『週刊安倍晴明』より)
と言っている本もありますが、真偽の程は定かではありません。
その4「幼い頃から鬼神が見えた」
平安時代といえば、「華麗なる王朝文化が花開いた時代」「女性は十二単をまとい、
和歌や、管弦の宴を毎日のように開いていた」「源氏物語や枕草子が書かれた時代」などを
思い浮かべるのではないでしょうか?そんな平安時代の華やかな表舞台の様子とは、うらはらに、
夜になれば、街や通りに、怨霊や、鬼がさまよい歩いていた時代でもありました。
安倍晴明の陰明師という仕事には、単に占いをするだけではなく、
そんな怨霊や鬼を退治することも含まれていました。
『今昔物語集』の記述によれば、幼い頃から、晴明は鬼神が見えたようです。
幼い頃の晴明は、賀茂忠行という陰陽師のもとで修行を重ねていました。
師忠行の言葉によれば、「(自分でも、)子供の頃に鬼神を見ることはなかった。
陰陽師の術を習ってから、やっと目に見えるようになったものだ。」そうです。
ということは、幼い頃から、鬼神が見えた晴明は、やはり、天才だったのでしょう。
この話には、「晴明がまだ若かった頃」としか、書いていないので、
はっきりした年齢はわかりませんが、恐らくは、「十代の初めといった頃」(『陰明師』著 夢枕獏より)
でしょうか。ある日、師の忠行について、夜、牛車に乗って下京(南の方角)に、向かった時の話です。
師の忠行は車の中ですっかり眠り込んでいました。
しばらくして、晴明がふと、前方を見るとなんとも言えない恐ろしい鬼たちが車のまえに
向かって来るのが見えました。驚いた晴明は、すぐに忠行を起こし、そのことを告げました。
目を覚ました忠行は、鬼の来るのを見ると、術の力によって、たちまち忠行自身と、
供の者たちを鬼の目には、わからない場所に隠したため、
無事にその場を通りすぎたと伝えられています。
ただ、幼い頃から、鬼神が見えたのは、晴明だけではなく、忠行の息子、保憲(やすのり)も見えた、
と『今昔物語』には、書き記されています。保憲は、後に、晴明の兄弟子になります。
保憲は、晴明のよき理解者であると同時に、ライバル関係にもあったようです。
(ちなみに、保憲は晴明より4歳年上でした。)2人は、幼い頃から、互いの才能を認め合い、
切磋琢磨しあっていた関係だったのでしょうか?
なんだか、2人の関係をあれやこれやと、想像してしまうようなエピソードです。
(鬼神にであったときには、息をひそめて自分たちの気配を消し、やり過ごすのが、普通だそうです。
そうすれば、鬼たちは、人間に危害を加えないのだとか)
その5「陰陽師というお仕事1」
陰陽師という仕事は、天体の動きを観察して吉凶を占ったり、太陽や月の運行を測って暦を作り、
これによって日柄の吉凶を判断したり、土地の吉凶を占ったり、
といったような「占い」が主な仕事でした。
又、この時代の人々は、生活のすべてが陰陽道に基づいて生活していました。
例えば、今日は、南東の方向が悪いと出ると「方違い」といって悪い方角を避けて通ったり、
日が悪いと出れば「物忌み」と称して、その日は一日家にこもったり。
そして、何か悪い出来事や印が現れれば、陰陽師を呼んでその原因を占ってもらいました。
例えば、こんなエピソードがあります。
初夏のこと。物忌み中の藤原道長のもとに、早成の瓜が献上されてきました。
道長は早速食べてみたいと思いましたが、今は物忌み中のため、
食べてもよいかどうか晴明に吉凶を占ってもらうことにします。
晴明が早速占ったところ、ほとんどの瓜は「吉」とでたのに、たった一つだけ「凶」と出た瓜がありました。
「この瓜に毒気があるようです。加持祈祷を行えば、毒気が現れるでしょう。」
そこで、次に、僧上観州(かんしゅう)が祈祷したところ、瓜が妖しく動きはじめました。
その様子を見ていた丹羽忠明(たんばのただあき)に向かって、道長は、
「毒気を押さえるように」と命じます。忠明は医者らしく瓜を手にすると、綿密に調査し始めました。
そして、2箇所に針をたてると、瓜は動かなくなりました。
次に、源義家(よしいえ)が進み出てきて、腰の短刀を引き抜いて、瓜を切ると、
瓜は、真っ二つに割れました。中には、小さなヘビがどくろを巻いてうずくまっていました。
(『古今著聞集』)
悪い出来事・兆候に怯える人々の心から、不安を取り除くのも陰陽師の仕事でした。
陰陽師として優秀だった晴明は、多くの人々に頼りにされていたようです。
*晴明も勤務した当時の陰陽寮跡。今ではNHKのTV塔が立っています。
その6「陰陽師というお仕事2」
晴明が、陰陽師として歴史の表舞台に登場するのは、五十七歳。
藤原道長に重く用いられるようになってからでした。
それまでの若い頃の記録は一切残っていませんので、
晴明がどうやって陰陽寮(朝廷内にある役所)の天文博士という地位にまで登りつめたのかは、
全くわかりません。文献には、何か事あるごとに、天皇や貴族に晴明が、
呼び出された記録が、たくさん残っています。
これらの事実から察するに、恐らく晴明は、こういった人々の信頼と腕の確かさでもって、
天文博士という地位を築きあげていったのだと思います。
今度は、晴明の役職、天文博士について、見ていきましょう。
具体的な仕事ぶりが伺えるエピソードが『大鏡』に載っています。
話は、晴明が六十六歳の時のこと。
ときは寛和二年(九八六年)六月二十二日のこと。
花山天皇は、藤原道兼にそそのかされ、天皇を退位することを決意しました。
この話は、花山天皇が出家先の花山寺に向かう途中の出来事です。
牛車がちょうど晴明邸にさしかかった時でした。
晴明の家から手を何度も強くたたきながら、「これは一大事。天皇がご退位あそばされるぞ。
天にはその兆候が現れているが、もはや事は決まってしまったようだ。
とにかく、すぐに参内に参ろうと思うので、着替えと車の用意をいたせ」と命じる晴明自身の声が
聞こえてきました。
また、続けて晴明が、「取り合えず、式神一人、内裏に行って事の真相を確かめてくるのだ。」
と言うと、目には見えない何物かが、屋敷の外へ飛び出す気配がしました。
が、そのものは、きっと、花山天皇の通りすぎる後ろ姿を見たのでしょう。
「申し上げます。天皇はたった今、この屋敷の前を通り過ぎていきました。」と述べました。
目に見えない声の持ち主は、式神でした。
晴明のような、陰陽寮に属する陰陽師には、
天皇や国家の吉凶・未来も占うという重要な仕事がありました。
ひとたび、凶事の兆しがあれば、それを未然に防ぐための手立てを打つのが仕事です。
「天にはその兆候が現れている」という言葉どおり、天文博士だった晴明は、毎晩のように、
天体を観測して星の動きを常に占っていたのです。
その7「人の過去・未来がわかる」
晴明の”陰陽師”としての功績は、「500年前に日本に入ってきた陰陽道をまとめあげ、
現在にも続く占いのスタイルを確立したこと。」
さらに、「陰陽道のすごさを広く一般に知らしめたこと」が挙げられます。
(『MORE』より)ここからは、晴明が使ったさまざまな術を紹介していくと共に、
陰陽師安倍晴明の「凄さ」を物語っていきたいと思います。
前に述べた花山天皇のエピソードからもわかるように、晴明は、人の未来がわかりました。
それだけではなく晴明は、人の過去・前世を見ぬくこともできたのです。
晴明が、六十五歳か、六十六歳頃のときのこと。
この話は、花山院がまだ天皇だったときの話です。
花山院は、原因不明の頭痛に悩まされていました。
そこへ、晴明が天皇の前世を占い、頭痛の原因を突き止めました。
彼は、天皇に「不運なことに、前世の骸骨が岩の間に挟まったままでいます」と言います。
「それが雨になると、岩が水を含んでふくらみ、挟まっている骸骨を圧迫するので、
頭痛が起こるのです。」天皇は言われたとおり、骸骨のある場所へ行き、首を取り出しました。
その後、天皇の頭痛はぴったり治まったそうです。(『古事談』より)
自分の前世・さらに未来を予知した人物を、花山天皇は、
出家し法皇となってからも何かと頼りにしていたようです。
人の過去・現在・未来すべてを見通せた晴明。晴明を主人公とした
岩崎陽子さんの漫画『王都妖奇譚』では、人の運命が見通せるという事に対して
晴明がコンプレックスを抱いていて、その事を彼がどうやって克服していくのか、
その点を軸にして物語を描いておられます。
こちらの晴明は、岡野玲子さん描く飄々としてクールな晴明とは、また違った人間味溢れる晴明で、
両方を読み比べてみるのも面白いと思います。
その8「笑いが止まらない」
『北条九代記』には、算術を使って人の感情を操った話が載っています。
それは、庚申の夜のことでした。
(当時の人々は、人の身体の中には、三尸(さんし)という虫がすんでいて、庚申の夜になると、
この虫が体内を抜け出して、その人の罪を天帝に告げると信じていました。
罪を報告されてしまうと、寿命を減らされてしまいます。
眠っていないとこの虫は、身体から抜け出せないので、この災難を逃れるために、
人々は、その日は、夜を徹して遊ぶのが慣わしとなっていました。)
晴明は、天皇に呼ばれて、宮中に召し出されました。
天皇は、晴明に「今日は、こうして皆が集まっている日だ。
せっかくだから、なにか変わったことをしてみせよ。」と言われます。
晴明は、「ならば算術を使って、皆様を笑わせてみましょう。
笑いすぎても、絶対に後悔されませんね。」と言うと、算木(計算をする時に使う道具)を取り出して、
それをみなの前に並べました。すると、そこにいた人々が、突然笑い始めました。
誰も何もしていないのに、何がおかしいのか笑いは止まらず、しまいには、
おなかの皮がよじれるまで、笑いつづけました。
「もう勘弁してくれ」と、人々が手で合図するのを見た晴明は、
「では、皆様、もう笑うのに飽きられたようですので、この辺で終わりにしましょう。」
と言って算木を片付けました。すると、今までのおかしさが嘘みたいに、
すっととれて何事もなかったかのように、部屋は元の空気に戻りました。
嘘か、真か、晴明は、他人の感情まで操ることができたようです。
ちなみに、算木の術とは、人間の視覚・聴覚・痛覚など、
五体の感覚のすべてを操ることのできる恐ろしい技だそうです。
それにしても、余興といえども、こんな恐ろしい技を気軽に披露してしまう、
晴明は、ちょっと意地が悪い性格だったのでしょうか。
※このページの掲載情報は、取材時のものであり、現在のもの、歴史上の事実とは異なる場合がございますので、ご了承下さい。参考としてご覧頂きますようお願い申し上げます。 |