鹿苑寺の通称「金閣」はここから。
第一層は法水院(ほすいん・ほっすいいん)と呼ばれ、
南面には上半分が開放できる半蔀が立てられた平安時代の寝殿造りになっています。
内部は正面に宝冠釈迦如来像が安置されており、
他の層が漆の上から金箔が張ってあるのとは異なり初層には金箔は貼られず白木になっています。
第二層は潮音洞(ちょうおんどう)と呼ばれる武家造で観音信仰の場。
床と壁は黒漆塗りとなっています。須弥壇には岩屋観音像が座しており、
それを守護する四天王像が周りに安置され、天井には飛天が描かれています。
外側は壁と高欄が金箔張りで、縁の天井には鳳凰と龍が描かれています。
四方は横方向に桟が走る舞良戸や板壁等に囲まれています。
昭和62年に松久宗琳が製作、焼失前の状態に復元されました。
第三層は究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれ、正面の扁額に書かれています。
唐様(中国風)禅宗仏殿造の層を最上階に置く事で、出家した義満が公武の上に立つ事を暗示したといいます。
内部中央に仏舎利を安置し、床は黒漆塗りとなっています。
天井や壁には金が押され、内側に明障子を入れた火灯窓によって内部は光り輝いています。
屋根は椹(サワラ)の薄い板を何枚も重ねた柿葺。
昭和25(1950)年に全焼、現在の舎利殿、金閣は昭和30年に復元されました。
昭和61~62年の大改修の際には総工費約7億4000万円が投じられ、
以前の5倍の金箔で覆われました。その純金の総量は約20㎏だったそうです。
金箔は一部が平成14~15年に貼り替えられ、更に平成15年には屋根の葺き替えが行われました。
[スキマ情報]
第一層の義満像から見た眺めはどのようなものだったでしょうか?
義満らは舟でここに入り、目前の葦原島が四季折り折りの彩りを魅せる様を楽しんでいたのかもしれません。
雪が積もった日には必ずと言っていいほど、その日の京都では「雪の金閣」の映像がニュースで流れます。
金閣寺のH.Pでは、毎日5分毎に撮影されるライブカメラ映像でリアルタイムな金閣の姿を観る事ができます。
鏡湖池
金閣の輝きを鏡の様に映す約2千坪の池で、
その名の通り鏡の様に澄み切った鏡湖池に映る金閣は「逆さ金閣」と呼ばれます。
葦原島等の大小の石や、細川石、畠山石、赤松石といったかつての有力武将達が競って献上した
奇岩名石が各所に配されています。
池の東南端にはかつて宴を催すための釣殿があったそうです。
畠山石:管領(将軍の補佐役。細川・畠山・斯波(しば)の三家が交代で務めた)畠山家が寄進。
二つの岩を重ねて、富士山に見立てています。
赤松石:この石を献上した赤松家は、管領に次ぐ侍所の長官を務めた四家のひとつです。
釈迦三尊石:葦原島の中心にあり、金閣と向き合う様に置いてあります。
釈迦と両脇侍の三尊仏を三つの石で表現しています。
細川石:金閣内部から観て葦原島の左端にある突き出た様な奇石。管領・細川頼之が献上しました。
彼は義満から最も頼りにされていたそうです。
九山八海石:「九山八海」とは、須弥山を囲む九つの山と八つの海から成るという仏教の世界観です。
これを象徴する霊石を、義満は中国から運ばせたとか。
その名石との評判は洛中においても高く、豊臣秀吉の聚楽第造営の際の名石狩りから奇跡的に逃れました。
庭園(特別史跡及び特別名勝)
金閣寺の境内40000余坪のうち28000坪が特別史跡及び特別名勝に指定されている回遊式・舟遊式庭園です。
鏡湖池を囲む様に、ショウブ、ウメモドキ、ツバキ、モミジ、ヒイラギ、クチナシ、サクラ、アセビ、サルスベリといった
花木が四季折々の彩りを添えています。
中国で庭造りも学んで来た禅僧・石立僧が主に作庭を指揮し、
当時、山川河原者と呼ばれた最下層の階級の民が庭を造りました。
鳳凰
金閣の屋根の上に南を向いて立っている中国の伝説上の鳥で、聖なる天子の使者、めでたいものとされています。
現在のものは昭和時代に設置されたもので、室町時代の初代旧鳳凰は尾が折れているものの、
昭和25年の火災を逃れたため、創建時の金閣の遺品として現存しています。
銅製ですが、当初は金箔で覆われ、義満の権力を象徴していたと考えられます。
夜泊石(よどまりいし)
金閣の東側、船着きに一直線上に並んでいる4つの石。
舟を繋ぎ止めるのに使用されていたと言われています。
そのものが港に泊まる舟の様にも見えます。
漱清
金閣の西側から池に突き出しています。
下層の縁と繋がり、西側と北側には腰掛けが付いており、床下は舟泊にもなっていました。
亀島、鶴島
不老不死で神通力を持つ仙人を目指す中国古来の「神仙蓬莱思想」から、
縁起の良いとされる鶴や亀を模した島を置いています。
葦原島
日本国をかたどった島で、「豊葦原瑞穂国」が名前の由来です。
書院
※普段は非公開です。
かつて大書院に飾られていた伊藤若冲の障壁画は現在相国寺承天閣美術館に展示されているため、
こちらには加藤東一画伯による水墨画が入っています。
四之間には丸炉(がんろ)があり、茶を点てて客へ運んでいた書院の茶が偲ばれます。
陸舟(りくしゅう・おかふね)の松
方丈の北側にある樹齢約600年の松の古木。
義満の盆栽から移植されたものと伝わっています。
その名の通り帆掛け船の形をしており、
西を向いて西方浄土に向かう思いが表現されていると言われています。
[スキマ情報]
京都三松(鹿苑寺、宝泉院、善峯寺)の一つに数えられています。
方丈(客殿)
普段は非公開の方丈が2009年4/4(土)~7/5(日)の期間中(6/15~/21を除く)、特別公開されています。
公開されるのは、ご本尊や諸仏像や襖絵・杉戸絵(デジタル複製画を初公開)、
方丈前庭と陸舟の松、宝物です。
拝観料:大人・高校生1000円、小・中学生:800円(大人保護者の同伴が必要)
方丈は金閣寺の本堂にあたり、仏間に本尊・聖観世音菩薩坐像、夢窓国師像、
足利義満像、文雅慶彦(ぶんがけいげん)像等が安置されています。
江戸時代の建造。狩野派一門の筆による襖絵、枯山水の庭園、
後水尾天皇手植えと伝わるツバキがあります。
平成19に終了した解体修理の際に近代日本画家・石踊達哉氏・森田りえ子氏による
杉戸絵が新作されました。
聖(しょう)観世音菩薩坐像
金閣寺の本尊。聖観音は1面2臂の観音のこと。
十一面観音といった変化観音の基本形とも言える形式です。
頭上に髻(もとどり)を結い、毛筋彫りで頭髪を表現、白豪相(びゃくごうそう)を表しています。
脇侍に梵天・帝釈天が安置されています。
庫裏
庫裏はお寺の台所。屋根上に大きな煙出しがあります。
江戸時代の建造物で切妻造桟瓦葺き、禅宗庫裏の中でも大規模なものです。
内部には大きな土間と板の間があり、吹き抜けがあります。廊下は方丈へ繋がっています。
昭和62年頃までは宿坊として使われていました。
現在は事務所、写経場となっているようです。
[スキマ情報]
金閣寺では、2カ所で写経の受付をしています。
そのうちの一つは庫裏で受け付け(9~16時)ています。
各一枚志納金1000円で三種類あり、内容は四弘誓願文(約15分。
仏教徒として心に掲げ精進すべき四つの弘大な誓願)、延命十句観音経(約20分。
観音様のご利益を十句に縮めて唱えやすくしたお経で、延命の為に観音様に唱える)、
般若心経(約60分。インドの古い言葉・サンスクリット語(梵語)を漢字に音訳したもので、
宗派を問わず広く読まれるお経)です。
もう一方は、不動堂付近にある「一字写経」です。こちらはテントの中で、
願い事を成就させる為に、心を込めて一文字を書きます。志納金は一字100円です。
唐門
唐破風の屋根を持つ門のことを唐門(からもん)と言い、平安時代後期から見られるようになりました。
金閣寺の唐門のように唐破風が正面に付いているものは「向(むかい・むこう)唐門」と呼ばれます。
逆に左右に付いているものは平唐門(ひらからもん)と呼びます。
胡蝶侘助
方丈前庭にあり、後水尾天皇御手植えと伝わります。
胡蝶侘助は椿の一種で、この木は原木にあたります。
浄蔵貴所の墓
浄蔵(じょうぞう)は平安中期の僧侶。
948年に八坂の塔が西に傾いたときに、塔に向かって祈念し法力で元に戻したという話が伝わっています。
また、父・三善清行の危篤の知らせを聞き、急いで京に帰った際に橋のところで父の葬列に出会い、
棺にすがって甦らせたことから、その橋は「戻橋」と呼ばれ、「一条戻橋」の名前の由来となりました。
浄蔵は他にも多くの霊験談が伝えられています。
[スキマ情報]
祇園祭の山伏山は、山伏の姿・修験者の浄蔵が大峯山に入る様を表現しています。
櫟樫(イチイガシ)(京都市指定天然記念物)
1983年に京都指定天然記念物に指定された巨木です。
金閣寺が現在の様な伽藍配置に再整備されたのは、江戸時代初期のことです。
この木は、その頃に殖栽された、あるいはそれ以前から残されていたとも言われています。
櫟樫は常緑高木の一つで、日本では関東南部以西や四国・九州に分布していますが、
現在の京都周辺では余り見られず、貴重となっています。
鐘楼
鐘は西園寺家由来のもので、鎌倉期に造られたと伝えられています。
一文字蹲踞(船形石)
この石を切り出した際に楔を入れた穴(矢跡)が残り、力強い印象です。
総門
金閣寺の表門。丸瓦には寺紋「五七桐」が刻まれています。
桐紋は天皇家から下賜された由緒ある家紋です。
門から見える紅葉は、秋に訪れる参拝者の目のご馳走です。
[スキマ情報]
門の左手に「五戒」が貼ってあります。
出家していない信徒が守るべき戒めのこと。
「五用心」という事は、この門を潜る者へのメッセージでしょうか。
参道
150m程の参道の両脇には、ヒサカキの垣根や山茶花、楓等の木々が秋には美しい小道を描きます。
馬繋
駐車場ならぬ「駐馬場」として使用されていたのかもしれません。
榊雲
金閣寺の鎮守・春日明神を祀った古廟榊雲(しんうん)があります。
銀河泉
義満が茶の水に使用したと伝わり、今でも清水が湧き出ています。
[スキマ情報]
義満は茶の愛好家で、宇治に専用の茶園を作る程だったといいます。
巌下水(がんかすい)
義満が手洗いに用いたと言われています。
金閣寺垣
龍門の滝の左、安民沢へと続く小道の石段・虎渓橋(こけいきょう)の両側の低い竹垣のこと。
垣の上部に3本の割竹を被せているのが特徴で、格調の高い仕切り垣として広く知られています。
境内の夕佳亭にも設けられています。
龍門の滝
2,3mの滝を一段落としにしてあり、その前には傾いた鯉魚石(りぎょせき)が置かれ、
登龍門(龍門の滝を鯉が登り切ると龍に変身したという中国の故事)に因んでいます。
また、この辺りはかつて天鏡閣や泉殿等があったと推定されています。
安民沢
龍門の滝を越え、坂道を上ったところにある池。連日の日照りでも涸れなかったため
雨乞いの場にもなっていました。雨賜沢・望雲沢とも言います。
鎌倉時代に太政大臣・西園寺公経の別荘があったところで、安民沢はその頃からあったようです。
白蛇塚
安民沢の中の小島に立つ多層石塔。
西園寺家の鎮守等と伝えられ、同家の遺跡であるとされています。
白蛇は弁財天の使い。
弁財天は智慧弁舌芸能福徳を与えてくれる神様で、家運を盛んにしてくれるといいます。
夕佳亭(せっかてい)
鳳林承章が後水尾法皇を迎えるため、江戸時代の茶道家・金森宗和に造らせたという茶室。
眼下の金閣が夕日に映える景色がことに佳(よ)いので、その名が付きました。
焼失後は明治7(1874)年に再建されました。
正面にある「難を転じる」南天の床柱や右側にある三角の棚・萩の違い棚がユニークで、有名です。
間の古木は鶯宿梅(おうしゅくばい)。奥の二畳は天皇の後座所であった上段の間です。
三畳で手前に竈(かまど)がある土間、奥に勝手をとった草庵風、屋根は茅葺きです。
貴人榻(きじんとう)
その昔高貴な人が腰掛けた石。
室町幕府より移築されたものだそうです。屋根付き!
富士型手水鉢
夕佳亭前にあります。
義満の孫で銀閣寺を建てた八代将軍・足利義政が愛用していたものと言われています。
義政は、毎年10月15日の紅葉の頃に金閣寺に参詣していました。
色付いた紅葉に囲まれた金閣の美しさを「四面皆山(かいさん)、楓葉(ふうよう)錦のごとし」と称えています。
不動堂
弘法大師の作と伝わる秘仏の石(いわ)不動明王は、節分と8/16の開扉(かいひ)法要の際に開帳されます。
この像を拝むと、首から上の病が治ると伝わっています。
開扉法要では、本山の相国寺の寺僧が祈祷の後、人々の願いが書かれた護摩木を焚きます。
不動明王立像(重文)
不動堂には石不動の他にこの木像も祀られています。
鎌倉期の1225年に創建の北山第の西園寺護摩本堂として造られ、室町以降ここに安置されています。
かつては毛が貼り付けられており、着装していたとされる珍しいものです。
茶所
点出しの気軽なお茶席です。
庭の野点席か座敷、好きな方を利用できます(金閣寺限定の金箔入り菓子と抹茶で500円)。
[スキマ情報]
かつての住職・伊藤敬宗が書いた「喫茶去(きっさこ)」の扁額がかかっています。
「喫茶去(きっさこ)」とは「お茶でもどうぞ」という意味で直訳される事が多いのですが、
禅語としては『趙州喫茶去』からきた言葉で、茶を飲むことに、新参者や古参者、凡聖や貴賎、
男女の区別も無く、差し出された茶は飲む、その一事に専念すること。
そのものをゆっくり味わい、自身と一体となる事は、悟りと修行との関係と同じ境地である、という事だそうです。
常足亭
※普段は非公開です。
境内にあった常足亭を解体し、その古材料を床柱や框(かまち)として活かし、平成19年に完成した茶席です。
数寄者建築の第一人者・木下孝一棟梁のもと、釘を一本も使わず古典建築の工法で作られ、
いつでも解体でき、また組み立てられるようにできています。
四方仏の蹲踞石は鎌倉時代のものと伝わり、小間の虹の襖絵は、
横山大観や菱田春草と並んで称えられた日本画家・下村観山によるものです。
荼枳尼天(ダキニテン)
金閣寺出口の手前にあります。
梵語ではダーキニーと言い大黒天所属の夜叉神でしたが、
中世以降の日本では稲荷神(自在の通力を持つ繁栄の神)として祀られるようになったそうです。
聖域を出る前に、ここで手を合わせて行きませんか?