[本山めぐり]大徳寺を歩くコース
大徳寺を歩くコース
北大路通りから北に入る大徳寺道(旧大宮通り「紫野 和久傳」が目印)を進みます。
この通りには寿司屋や蕎麦屋、大徳寺納豆、精進料理のお店等が並んでいますが、
お土産物屋が立ち並んで騒がしい巷の観光地とは違って、落ち着いた印象です。
ここの昆布は美味しいですよ。
まずは通年公開している霊雲院に入ってみることに。
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♪スキマ情報♪
大徳寺納豆とは、ゆでた大豆と大麦の粉を合わせて天然の麹菌で自然発酵、
煮汁と塩を加えて煮て熟成させ、天日干しで乾燥させたもの。
見た目は黒褐色でしっとりとしており、糸は引かずに小さく丸めた味噌のような姿をしています。
ちょっとしょっぱくて、独特の風味。お茶を片手に頂きたくなる味です。
アクセントとして和菓子の中に数粒入っていたりする事も。
受験生の頃に、よく食べてたなあ?。脳が大徳寺納豆の成分を欲していたのでしょうか??
その製法は、中国から禅僧によって持ち帰られ、一休禅師によって伝えられました。
肉食が禁じられていた僧侶達の貴重なたんぱく源であり、
応仁の乱で飢えに困っていた人々に一休禅師がその製法を伝えたといわれています。
他にも「天龍寺納豆」や「一休寺納豆」等があります。 |
消防署を越えると広い駐車場が見えてきました。
ここには客待ちのタクシーがいつも数台は停まっています。
大徳寺の東側・総門から境内に入っていく事にしましょう。
北大路通りに面した南門から入った場合でも、途中で「大徳寺山内略図」の看板に出会います。
大徳寺の様な大きなお寺には塔頭がたくさんあり、公開しているところとそうでないところがあるので、
まずはこれを見て、行き先を確認して下さい。
ちなみに、通年公開している塔頭は、瑞峯院、大仙院、高桐院です。
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大徳寺の東側・総門 |
大徳寺山内略図 |
龍源院
大徳寺南派の本庵。能登の領主の畠山義元、九州の都総督の大友義長(大友宗麟の祖父)らが
大灯国師から第8世の法孫、東渓宗牧を開祖として創建。創建当初は、霊山一枝軒を称しました。
本堂は創建した室町時代最古の方丈建造物として重要文化財に指定されています。
庭園は室町時代の作で、方丈を中心として北庭の「龍吟庭」は三尊石組からなる須弥山式の枯山水庭園であり、
当時のものとされています。
阿吽の石を置いた「こ沱底」、日本最小の坪庭といわれる格調高く有名な「東滴壺」、白砂と苔庭からなる
「一枝坦」等の庭があります。書院にある蒔絵の碁盤は、秀吉と家康が対局したと伝えられています。
- 拝観期間:常時公開
- 開基・開山:東渓宗牧(仏恵大円禅師)
(畠山義元、大友義長らによる。 1502(文亀2)年)
- 国宝:釈迦如来坐像
- 重文:方丈・附玄関共に同時代の建立。四脚門切妻造の檜皮ぶき。
- その他の寺宝・建築等:庭園-室町時代の作。北庭「龍吟庭」:三尊石組から成る須弥山式の枯山水庭園で当時のものとされる。相阿弥作。 「こ沱底(こだてい)」:阿吽の石を置く。 「東滴壺」:日本最小の坪庭。 「一枝坦」:白砂と苔庭で構成。 秀吉と家康が対局した四方蒔絵の碁盤及び碁筒。
- 拝観料:350円
- お問い合わせ:075-491-7635
- アクセス:市バス206「大徳寺前」
- ホームページ
朱色の山門の前に建つ塔頭。
パンフレットによると、「大徳寺中で最も古いお寺」。名前の由来は、大徳寺の山号「龍宝山」の「龍」と、
今日の臨済禅でただ一つのみ存続しているという松源一派の「源」から取ったものだそうです。
方丈前の石庭(南庭)が見えてきました。
なんともシャープな印象です。スパッ!スパッ!と区切られていて、気持ちがいいですね。
庭石、白砂、玉砂利、敷石/「石」と一言で言っても、姿は様々です。
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石庭(南庭) |
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南庭「一枝坦(いっしだん)」
開祖・東渓禅師が、その師・実伝和尚より賜った室号「霊山一枝之軒」より命名。
かつては樹齢700有余年を経た 「楊貴妃」という山茶花の老木があり、
真紅の花を一面に咲かせていた事で有名だったそうですが、昭和55年の春に寿命で枯れてしまったそうです。
お寺の庭には、よく蓬莱山や鶴と亀をモチーフにした造形がみられます。
蓬莱山とは、仙人の住む不老長寿の吉祥の島のこと。この庭で蓬莱山に当たるのは、
中央から右よりのところにある石組み、鶴が右隅の石組みで、亀島はこの丸い苔山です。
白砂は大海原ですね。そう意識して再び見ると、楽園の様な景色が目に浮かんできませんか?
開祖堂
こちらが開祖堂でしょうか。
ここの開祖・東渓宗牧の塔所で、南北朝・鎌倉・室町初期時代の様式を取り入れた、
昭和の唐様木造建築の代表作だそうです。
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開祖堂 |
北庭「龍吟庭」
方丈の裏にまわると、「龍吟庭」があります。
室町時代特有の、三尊石組から成る須弥山式の枯山水庭園です。
庭石は28個あるそう。こちらは杉苔で大海原を表現し、まるで南庭と一対になっているかのようです。
「須弥山」という言葉は以前、東福寺編でも触れましたね。
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龍吟庭 |
書院庭園「こ沱底」
向かって右(西)に阿の石、左(東)に吽の石があり、これらは聚楽第の基礎石であったと伝えられています。
名前の由来は、臨済禅師が住んでいたという、中国河北の鎮州城の南に流れるこ沱河から。
出る際には方丈の棟瓦にもご注目。附玄関、表門の棟瓦と共に、
八坂神社楼門の棟瓦と同じ室町時代最古の様式のものだそうです。
一重切妻造の檜皮ぶきです。意外な場所と共通点があったんですね。
東庭「東滴壺」
これが日本最小の坪庭と呼ばれるお庭です。
落ちた滴が波紋を広げているように見えますが、
もしかしたら、人の心の中を写しだしているのかもしれませんね。
少し進むと、「平康頼之塔」がありました。
正直なところ、いつも素通りしていたので、後でこの人物について調べたところ、
1177年に藤原成親、西光、俊寛らの平家打倒の密議(鹿ヶ谷の陰謀)に参加した事が漏れて、
俊寛、藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流されたそうです。
『平家物語』によると、信仰心の厚かったという康頼は流罪に際して出家、入道しました。
成経と康頼が望郷の和歌を記し、海に流した卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、
心を打たれた平清盛によって赦免。
帰京した後は仏教説話集『宝物集』を記し、源頼朝の推薦によって阿波麻殖保司となったそうです。
しかしなんでこんな道中に…と思いましたが、どうも康頼の母親がこの紫野に住んでいたようですね。
帰京した時には既に亡くなっていたとか・・・。
瑞峯院
キリシタン大名として知られる大友宗麟が、徹岫宗九を開祖として創建しました。
本堂、表門創建当時のものでともに重要文化財になっています。
方丈裏には、閑眠庭と呼ばれる庭園があり、重森三玲によって1961(昭和36)年に設計されたもので、
枯山水の庭の石組が十字架のような形をしている様に見えます。
庭園は独坐庭と言われる庭園は苔と石組で構成され枯山水の名園として知らています。
庭を眺めながら、抹茶の接待もあります。
- 拝観期間:団体の場合、法話希望の場合は電話、葉書にて要予約 平成待菴…拝観要予約(茶席安勝軒は通常公開)
- 開基・開山:徹岫宗九(大友宗麟による 1535(天文4)年)
- 重文:本堂、表門
- その他の寺宝・建築等:庭園-「閑眠庭」重森三玲設計 「独坐庭」-枯山水 茶室 -「安勝軒」「餘慶庵」「平成待庵」
- 拝観料:400円 抹茶400円
- お問い合わせ:075-491-1454
- アクセス:市バス206「大徳寺前」
- ホームページ
「独坐庭」ー枯山水
方丈に入ってすぐにお庭に目を奪われました。他の塔頭とは違って、
躍動感のある枯山水だと思いませんか?池に潜るドラゴンに見えたのは私だけ・・・?
このお庭は、百丈禅師が
「独坐大雄峰」と呼唱した禅語から名前が付いたといいます。
蓬莱山の山岳から半島になり、大海に絶え間なく荒波に、
打ち寄せ揉まれながらも雄々と独坐している、大自然の活動を表現。
奥にある茶室の前部分は入り海を現し、真逆に静かな風景を演出しています。
「この世で一番有り難く、貴いものは、神でも仏でもなく、めいめいが生きて、そこに坐っているという事実。」
見ていて落ち着く、というよりはむしろ、白砂と共に自分の身体の中で何かがうごめくようにそわそわしたのは、
この庭が「生きる力」を現したものだからかもしれません。
「何か、パワーが欲しい」という人には、ぜひともこのお庭の前に坐る事をお試し下さい。
さて、お尻を向けてしまっていた方丈内へと向き直り、遅まきながら手を合わせます。
襖絵は、世界的な名山・朝鮮の金剛山を、延べ33間に及んで描いています。
こちらも、お庭と連動して大自然の雄大さをテーマにしているようです。
茶室「餘慶庵(よけいあん)」
まるで波打ち際に立つ庵のようですね。
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餘慶庵 |
茶室「安勝軒」「平成待庵」
宗麟の時代にも「安勝軒」という銘のものがあったそうですが、
享保年間に廃され、その軒号をそのまま取っています。「平成待庵」はその向こう。
ちょっと見えないかもしれませんね。
利休の作と伝えられているオリジナルの待庵は、京都府乙訓郡大山崎町の妙喜禅庵にあります。
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妙喜禅庵 |
勅使門(重文)
大徳寺の諸堂は勅使門・三門・仏殿・法堂と南北に一直線上に並び、
後方に庫裏、東に方丈が配される禅宗の典型的な伽藍配置です。
山門前にある勅使門は、前後唐破風の左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門です。
後水尾天皇より内裏の門を拝領したと伝えられています。
2000(平成12)年に屋根等が修復されました。
立体的な彫刻が素晴らしいですね。
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勅使門 |
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三門(重文)
本瓦葺の唐様建築で、禅寺三門のうちでは、東福寺の三門に次いで古いといわれています。
1526(大永6)年、連歌師宗長が初層を寄進し、1589(天正17)年に千利休によって上層が増築され、「金毛閣」と称し、
自分の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休自決の原因となった話は有名です。
「金毛閣」の額がはっきりと見えます。この上層部に利休の像が安置されていたのですね。
他の伽藍群に比べてひときわ赤く目立ち、人が潜るこの門に利休の像を置いた意図とは・・・?
当時の人間模様を考えてしまいますね。
ふと左に目をやると、休憩所がありました。 歩き疲れた人、寺宝を見過ぎて寺酔いした人(笑)はどうぞ。
ちなみにセルフサービスです。
仏殿(重文)
第一世大現国師により創建されましたが応仁の乱で消失し、一休宗純等によって再建され、
1665(寛文5)年に那波常有によって改めて建造されました。
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仏殿 |
法堂(重文)
仏殿の北にある、江戸時代建築の重要文化財建造物です。
1325(正中2)年に宗印禅者を檀越として修造を始めますが、応仁の乱によって消失しました。
一休宗純が仏殿を再建されて後、仏殿と兼用されていましたが、1636(寛永13)年の開山国師三百年遠諱に当たり、
江月和尚の参徒である小田原城主稲葉正勝の遺命によって、その子正則が再建したものです。
天井の龍の絵は、狩野探幽の筆によるものです。
方丈(国宝)
南の庭園は広い白砂敷きで、土塀に沿って樹木と東南の隅に賀茂川の黒大石と紀州の青大石を並べ立て滝口とし、
その下に平石を置いて渓流をかたどっています。中央には勅使門があります。
東の庭園は細長く江戸時代初期を代表する枯山水で、二段の刈込に沿い大小の石組で表現され、
昔は鴨川、比叡山を借景にしていました。
方丈庭園は国の史跡および特別名勝に指定されています。
西庭(露地)
朝鮮の王城の礎石を持ち帰った(いいのか?)という豪壮な袈裟型の手水鉢。
水の中を、赤や黄のもみじがゆらゆらと揺れています。
細川三斎の墓碑に捧げるための水を汲み上げていたものだという三斎井戸。
唐門
妙覚寺表門と並び、桃山時代に豊臣秀吉が京都に造営した華麗壮大な城郭風の邸宅である聚楽第の遺構とされています。一日見ていても見飽きないことから日暮らしの門といわれています。明治の中頃まで勅使門の西にありましたが、現在は方丈前庭にあります。
法堂の後ろにある建物が庫裏、その右が方丈で、その前にあるのが唐門ですが、
中には入れなかったので、庫裏と方丈らしき建物が見えるのみ。
あれ、そういえば西本願寺の唐門も通称「日暮門」だったような・・・?
あちらは確か、伏見城の遺構と伝えられていました。
大仙院
大徳寺北派の本庵。近江の六角氏の出身である政頼が、その子古嶽宗亘を開祖として創建しました。7世住持は漬物のたくあんで知られる沢庵宗彭です。本堂は創建当初の建物で日本最古の禅宗方丈建築であり国宝となっています。庭園は禅宗枯山水を代表する石庭といわれ、東と北にわたる鉤形の狭い敷地に樹木や石組、白砂を配置して蓬莱山から出た渓流が大河となって大海(方丈南)に注ぎ、中海(方丈北)に至る様子を表すことで見事に人生の流れを説いています。特に書院庭園は史跡・特別名勝に指定されており、客殿の障屏図の相阿弥筆「瀟湘八景図」や狩野元信筆「花鳥図」、狩野之信筆「四季耕作図」は共に重要文化財です。
- 拝観期間:常時公開(12月~2月 9:00~16:30) ※寺院行事の節は拝観不可 ※本堂屋根修復工事のため、12/10~/28、1/7~/31は拝観中止(週末座禅は実施)
- 国宝:本堂-禅寺の客殿遺構として大徳寺山内で最古 日本最古の禅宗方丈建築。
- 重文:書院、相阿弥筆「瀟湘八景図、狩野元信筆「花鳥図」、狩野之信筆「四季耕作図」
- 名勝:方丈南面の砂庭、書院庭園(国の史跡および特別名勝)-古嶽宗亘(大聖国師)作。
- 拝観料:400円 抹茶200円
- お問い合わせ:075-491-8346
- ホームページ
- 参考リンク
残念ながら、ここは撮影禁止でした。入り口の石畳がなんとなく可愛かったのでこれだけでも・・・。
取材時は、ここの名物和尚(H.P参照)の姿はお見受けしませんでしたが、
ご本人が居なくても、このお寺には和尚の個性を感じました(笑)。
ここの三世古渓和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれ賀茂の河原で梟首にされた千利休の首を持ち帰り、
漬物の「たくあん」を考案したといわれる七世沢庵宗彭は、宮本武蔵との関係で有名です。
また、大林宗套(だいりんそうとう)、笑嶺宗訴等の名僧を輩出し、千利休を始め、
様々な茶人が大仙院歴代と密接な関係があったといいます。
どうもこのお寺は代々個性が光る和尚が多いのでしょうか?
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入り口の石畳 |
方丈南面の砂庭
国の名勝に指定され、大海を表現しているだけあって壮大です。
書院庭園(国の史跡および特別名勝)
鶴島と亀島の間にあるのが蓬莱山です。想像してみて下さい。そこから滝が流れ落ちます。
その流れが石橋の下、透渡殿の下をくぐり、一旦堰を落ちて大河となります。
石の宝船がその上を浮かび、小亀も泳いでいます。
そして、その流れは大海に至るのです。
蓬莱山から落ちた水が亀島の前を通って西へ向かう流れは、方丈北の中海に至ります。
北書院「拾雲軒」
沢庵和尚が宮本武蔵に剣道の極意を授けたところと言われているそうです。
襖絵の作者は相阿弥、狩野元信、狩野之信という蒼々たる顔ぶれ!
相阿弥は、足利義政に仕えた室町後期の画家。
牧谿風の水墨技法が特徴です。
狩野元信は狩野派の祖・狩野正信の子で、狩野派の画風を大成しました。
彼は相阿弥にも大きな影響を受けたとか。
狩野之信は、安土・桃山時代の狩野派の画家。兄の元信と共に父・正信に学びました。
♪スキマ情報♪
大徳寺山内の塔頭のあちこちで坐禅の体験ができます。
なかでもこの大仙院では、週末坐禅会など夕方に座禅を組めるので、
早起きが苦手な人や、サラリーマンの方も参加しやすいかも!?
以下は、過去の「一言コラム」からの抜粋です。
『頭の中を空っぽにしてみようと
座禅会に参加してきました。
場所は大徳寺龍泉庵。 街中から早朝の静かな境内に入ると、砂利を踏みしめる音と、
ほうきでお庭を掃く音に、次第に心が落ち着いてきます。
丁寧な複式呼吸を心がけると、 身体がまるでポンプの様に朝の空気を取り込みます。
時折休憩を挟みながら、また和尚さんに肩をパシッと叩いて頂くと、いつの間にか集中できるようになってきました。
いつでもどこでも座禅はできます。
こちらをクリック。 』
高桐院
利休七哲の一人細川忠興(三斎)が父・幽斎の菩提所として創建しました。
茶室松向軒は豊臣秀吉が北野天満宮で催した大茶会のものから、
書院の意北軒は千利休邸からそれぞれ移築されたものと伝えられています。
庭園は楓の林からなる南庭と袈裟型の手水鉢が置かれた西庭があり、秋の紅葉は見事です。
墓地には三斎とガラシャ夫人の墓のほかに、三斎の三回忌で殉死した興津弥五右衛門や
歌舞伎の原型を作ったといわれる出雲の阿国の墓があります。
三斎の墓塔はもとは利休の燈籠でしたが、秀吉に所望されたため、
利休はわざと笠の一部を欠いて断り、三斎に贈ったといわれています。
寺宝の李唐筆の「山水図」は南宋初期山水画の名作で国宝です。
- 拝観期間:常時公開・寺宝「山水図」・・・「曝凉展」(毎年10月第2日曜日限定で公開) ※団体の時は電話、葉書、FAX(075-493-8733)にて要予約 開祖忌(6/8)は拝観中止
- 開基・開山:玉甫紹_(ぎょくほじょうそう 幽斎の弟)(細川忠興による。 1601(慶長6)年)
- 国宝:李唐筆「絹本墨画山水図」
- 重文:銭舜挙筆「牡丹図」-北野大茶会に使用された。
- その他の寺宝・建築等:茶室「松向軒」-豊臣秀吉が北野天満宮で催した大茶会のものを移築。三斎好みと伝える二畳台目の席。 書院「意北軒」-千利休邸から移築。 南庭-楓の林 西庭-袈裟型の手水鉢 茶室「鳳来」-円能斎好み。
- お問い合わせ:075-492-0068
- アクセス:市バス206「大徳寺前」
- ホームページ
茶室「松向軒」
豊臣秀吉が北野天満宮で催した大茶会のものを移築。名前は三斎の法名から。
清厳和尚によると、「常に松声を聞き且つ趙州無舌の茶味を嗜む因って松向と名づく云々」とあり、
茶室には珍しい黒壁が、瞑想の場のような簡素で幽玄の趣。
昼間でこの薄暗さ。確かに、この空間では釜から聞こえる湯気の音(松声)のみに耳を傾け、
ただお茶の風味をじっくりと味わう事だけに集中するしかありません。
そんな効果を計算し尽くして設計されていた事が、茶室の名前から伺えます。
現在の北野天満宮の境内にも、細川三斎ゆかりの松向軒は残されていますが・・・
もしやこの茶室は双子!?
(
天神さんのお膝元・北野・西陣・上七軒観光コース)
北野大茶会で登場したとされる茶室は、これまでにもご紹介しましたね。
(
建仁寺本坊・東陽坊)
(
東福寺霊雲院・観月亭)
茶室「鳳来」
床の間には掛け軸とお花。ここのご住職・剛山和尚の筆です。
「一鳥啼山更幽(いっちょうないて山 更にしずかなり)」と読み
(鳥のところが字の代わりに鳥の絵になっていたんですね!)、
「鳥がないて、山の深さがより深められ、しずかさの幽境そのもの。」という意味だそうです。
後で調べてみたところ、興味深いことに、
「一鳥不啼山更幽(一鳥啼かざれば山更に幽なり)」という禅語もあるそうです。
静寂は鳥の声によって気付くのではなく、自らの心の中にあるものですよ・・・
といったところでしょうか?静けさを求めて、多くの人が訪れる高桐院。
この言葉は拝観者に対するメッセージなのかもしれません。
南庭
これが、かの有名な静寂の庭。江戸時代初期の造園。
自然のままの楓の林が美しい。紅葉の名所たる所以です。
普段はこんな感じ。ひんやりとした空気に、心が落ち着きます。
苔を湿らせる小雨が降ったら、まるで静かな滝の前にいるかのような錯覚を覚えるかもしれません。
書院「意北軒」
ここが千利休邸がら移築されたものと聞くと、利休が畳に座っているところを思わず想像してしまいませんか?
床の軸の字は「関(かん)」。
大徳寺の開山・大燈国師の筆で、「生死のくぎり」という一言が足元の色紙に添えてありました。
お庭に降りて、散策してみることにしましょう。
苔は踏まないように、飛び石の上を歩いて下さいね。
これが「炭の雨落ち」でしょうか。
苔の庭の隅に、炭の様な物が埋まっています。
雨が落ちる場所に木炭を置き、雨水が跳ね返るのを防ぐと同時に水の流れも良くし、
臭いも出さない「用と景の二つを融合させている」との解説がありました。
それにしても、紅葉のグラデーションが見事だこと!
石畳にもちらほら落ちています。
墓所
高桐院は、お墓も見どころが多いのです。
名前が書いていないものについては、誰のお墓か分からないそうです。
・興津弥五右衛門(三斎の三回忌で殉死。森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」に登場)の墓
・出雲の阿国と名古屋山三郎(歌舞伎の始祖)の墓(ここからは見られません)
あとは、清巌(大徳寺170世の名僧。三斎に影響を与える)・大心和尚の墓など。
ちょうど、タクシーの運転手さんがお客さん達に、
細川三斎の灯篭墓石について解説しているところでした。
「ほら、ちょうど裏側の三分の一がノ」
「ほんとだ、欠けてる。」
「利休はよっぽど秀吉に渡したくなかったのねえ」
「この時から既に仲が良くなかったんでしょうかね」
「でもわざと欠けさせるなんてちょっとやり方がねえノ」
「そーよね~」
とマダムたち。ちょっと同感。
この天下一と呼ばれた灯篭は、利休の割腹後に改めて三斎に遺贈され、「無双」「欠灯篭」とも呼ばれています。
更に蕨手や灯口、横が欠けているのは、完全を忌む三斎自身が後に欠いたという記録があるそうです。