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一見さんお断り

初見のお客を断る事を「一見さんお断り」といいますが、
馴染みのお客を大切にしたいという気持ちの表れです。
また、お茶屋での遊びは、タクシー代から二次会までの費用を全てお茶屋が建て替え払いをし、
後日に請求する仕組みとなっているため、客とお茶屋との信頼関係が大切なのです。
最近では一見さんでも受け入れるお店や宿も増えましたが、
お茶屋の世界ではこの「一見さんお断り」の精神が今でも息づいています。
このようなお茶屋などを利用するには、常連客や料亭、旅館から紹介してもうらうのが得策です。

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京のお話

花街(かがい・はなまち)

京都には島原・祇園甲部・祇園東・上七軒・先斗町・宮川町の六花街があり、
それぞれお茶屋(揚屋)や置屋を有しています。
中国で遊芸を楽しむ遊里を「花街柳巷(かがいりゅうこう)」と呼んだのが名前の由来で
「花街」「花柳界」と呼びました。

舞妓、芸妓

舞妓と芸妓の違いは、舞妓の場合、地毛を結い花簪で華やかに飾ります。
着物や帯も色鮮やかで、長く垂れた「だらりの帯」と「おこぼ」と呼ばれる高下駄が目印です。
舞妓さんの事を「おぼこい(可愛らしい)な~」と言って褒めたりすることも。
芸妓は島田などの鬘を被り、化粧も大人っぽく。着物も肩に柄の無い落ち着いたものに変わります。

磯田多佳

茶屋・大友の女将・磯田多佳は多くの文士と交流を持った文芸芸妓として知られ、
里見弴(みとん)や志賀直哉など著名な文学者達が多佳を訪ねました。
 
[スキマ情報]
高浜虚子は多佳をモデルに小説を書き、夏目漱石は多佳に梅見の約束をすっぽかされた際に
悲しい気持ちを歌に詠み胃痛まで起こしたといい、谷崎潤一郎は亡くなった多佳を偲んで
随筆「磯田多佳のこと」を出版しました。

中西君尾

幕末の下級侍を身体を張って守り「勤王芸妓」と呼ばれました。
 
[スキマ情報]
君尾は、当時縄手通にあったお茶屋「魚品」で長州の井上馨と出会いました。
井上が刺客に斬りつけられた際、君尾から贈られた鏡を懐中していたため命拾いをしたといいます。
井上は、明治になって元老となり、財界人の大御所となりました。
他にも品川弥二郎らを助け、桂小五郎が新選組に踏み込まれたときには機転を利かせて逃がすなど、
後に新選組の壬生屯所に連行され拷問を受けましたが、近藤勇が「君尾は白状する女じゃない。
祇園の女だ」と止めたといいます。実は近藤も君尾に惚れ込み、ふられた事があったとか。

モルガンお雪(加藤ユキ)

明治期の国際ロマンスとして一躍有名になり、渡米した芸妓です。
 
[スキマ情報]
胡弓の名手で祇園の売れっ子だったお雪は、京都帝国大学生の川上俊介と相思相愛の仲でしたが、
アメリカの大財閥・ジョージ・デニソン・モルガンに見初められます。
彼からの熱烈な求婚に、お雪は諦めてもらおうと「私が旦那さんと別れるには
四万円(当時の約1億円相当)がいる」ととっさに言ってしまいます。
その噂は新聞で騒がれるほどになり、次第に心が離れていった川上は、
女学校出の令嬢と結婚してしまいます。お雪はモルガンと共に横浜で結婚式を挙げ渡米しました。
しかし、モルガンは後にスペインで病没、お雪はフランスで静かに暮らしていましたが、
昭和13年に帰京し余生を送りました。

地方、立方

三味線を弾くのが地方さん、舞を舞う芸舞妓を立方といいます。

男衆(おとこし)

舞妓さんの約5m~7m50㎝にも及ぶ帯、約20キロにもなる着物を着付ける
裏方の男性の専門職ですが、現在は女性もいるそうです。
金糸や銀糸が多く使われている帯は高価で重く、扱いも難しいもの。
その日の天候やお座敷の数、舞妓さんの体調等によって、締め加減を調節しながら着付ける技が
要求されます。なり手が少ないため、現在は花街に数十名しかいないそうです。
 
[スキマ情報]
舞妓さんと直に接するため、舞妓さん達からは兄の様に慕われ、相談相手になることも。
日頃触れている和のエッセンスを取り入れ、デザイナーや写真家としても活躍する男衆さんもいます。

お茶屋

芸妓を呼んで宴席を楽しむお座敷を提供するお店で、外観は、
面には看板を挙げず屋号が掲げてあるだけというシンプルな佇まいです。
料理は老舗料理屋からの仕出しを取ります。
八坂神社一帯の地は、平安時代より花見や月見の地として多くの人が集まり、
茶店や水茶屋ができていきました。戦国時代以降になると、女性を水茶屋に置いて客をもてなし、
お茶はお酒に変わり、田楽を供して歌や舞を披露するようになりました。
これが祇園の芸妓やお茶屋という名の起こりです。
1732(享保17)年には幕府がこの地域を含む「祇園内六町」に茶屋営業を許可しました。
江戸末期には祇園全体で700軒ものお茶屋があったようです。
 
[スキマ情報]
夕方18時頃になると、お座敷に上がる芸舞妓が訪れる姿が見られます。
女将は宴席をさりげなく仕切り、「をどり」のチケットや宿の手配、手土産の用意など、
お客のあらゆる要望に応えます。

お茶屋遊び

お茶屋に芸舞妓や地方を呼んで、宴席を楽しみます。
基本的な流れは、お座敷に客が揃うと芸舞妓が登場し、「よろしゅう、おたのもうします」と挨拶。
客の側に座った芸舞妓と語らい、仕出しの料理を楽しみます。
その後舞が始まり、お座敷遊びで盛り上がります。
 
[スキマ情報]
お座敷遊びの例としては、「金比羅船々」「お盃遊び」「五円落とし」「麦つんで」があります。
「金比羅船々」:向かい合った二人の間に置いた碗等を、「金比羅船々~」の唄に合わせて、
交互に手の平を碗の上に乗せては引っ込めるを繰り返し、
相手が碗を取ったらもう片方の人は拳を出します。つい間違えて手の平を出したら負け。
三味線がだんだん速くなってくるとパニックに…!?
「お盃遊び」:順に盃にお酒を注いでいき、溢れさせた人が負け。
罰としてその盃を空けなくてはいけません。
「五円落とし」:コップに薄紙を被せ、上に硬貨を置いて、
順に煙草の火で硬貨の周りに穴を空けていって、硬貨を落とした人が負けになります。
「麦つんで」:唄に合わせながら、親に見えないように左手に握った硬貨を隣の人に渡していきます。
この時渡すふりをしてもOK。唄が終わったら親が誰が硬貨を持っているかを当てます。

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京のお話

店出し、衿替え

店出しとは、いわゆる舞妓の花街デビュー。屋形(置屋)で修行を経た舞妓のお披露目です。
衿替えとは、舞妓が芸妓になる儀式。
舞妓時代の赤い衿を、落ち着いた白い衿に変わる事が由来です。

[スキマ情報]
店出しでは、姉芸妓たちと三々九度の盃を交わす「お盃」の儀式が行われます。
店出しの日から3日間は姉芸妓等に化粧をしてもらい、
べっ甲の簪に銀の挿し物といった特別な髪型になります。
だらりの帯を締めます。帯は約5mあり、衣装全体で20㎏近い重さになるそうです。
衿替えでは、特別に誂えた豪華な黒紋付きを着付けてもらい、鬘を被ります。
贔屓の客から、鯛や鶴などのめでたい絵柄が描かれた目録が贈られます。
屋形の女将に挨拶し、お茶屋を一軒ずつ廻ります。

祇園甲部

祇園甲部とは、祇園町の南側と花見小路、四条通、縄手通り、新橋通りで囲まれた区域を指します。
寛永年間(1624~44)に祇園社の門前から大和大路に至る道に水茶屋等が建ったのが
発祥とされています。寛文年間(1661~73)になると四条大和大路の南側に茶屋町「祇園外六町」が
誕生。後に四条通りの北にも「祇園六町」が生まれ、祇園新地と呼ばれました。
 
[スキマ情報]
祇園甲部の京舞は井上流で、現在の家元で五代目です。
初代サトは近衛家老女の南大路鶴江に仕えて寛政9(1797)年に舞の師匠として独立しました。
近衛家から下がるときに、その老女から「玉椿(長寿の木)の八千代(長い年月)まで、
お前の真心は忘れぬ」という餞別の言葉を賜り、以来井上流の家元は代々八千代を名乗っていると
いいます。三代目の井上八千代(片山春子)は、東京遷都により衰微していた京都に
人を呼び込むための博覧会を催した当時の知事・槇村正直から相談を受け、第1回「都をどり」を
開催しました。これが大好評となったため、その褒美として槇村が八千代に欲しいものを
何でも言うように、と尋ねると、今後の祇園には井上流以外の流派は一切入れないようにして欲しい、
と答えたそうです。以来、祇園甲部の踊りは井上流一本となっています。

祇園東

祇園東とは、東大路、四条通り、花見小路、新橋通りで囲まれた区域です。
官許の廓とされた祇園内六町の新地が明治19(1886)年に京都府の命で二分され、
昭和24(1949)年に東新地と呼ばれ、一時は「祇園乙部」と呼ばれていましたが、
戦後は今の名称となりました。京都五花街の中で、
唯一祇園東は秋のみの公演(祇園をどり)となっています。

[スキマ情報]
踊りの流派は藤間流です。芸妓さん達のお得意は清元だそうです。

宮川町

宮川町は、四条~五条間の鴨川から東側にある花街。
四条河原に櫓(芝居小屋)があったことから発展、多くの役者が住んだといいます。
寛文6(1666)年に祇園外六町と共に栄え、宮川筋と呼んでいました。
宝暦元(1751)年に茶屋営業が許可されました。
毎年4月には、宮川町歌舞練場で「京おどり」があります。
 
[スキマ情報]
舞の流派は若柳流。10~15人くらいで踊る「群舞い」が見もの。
芸妓衆のお得意は、長唄です。
町名の由来は、祇園社の御輿洗いのための神水を汲む四条大橋あたりの鴨川を宮川と呼んだことから
等諸説あります。秀吉の時代のこの辺りは、広大な鴨川の河原であったとみられています。
若衆歌舞伎が始まった頃、それに出演する若衆の宿が宮川町に軒を並べました。
今日歌舞伎役者にはそれぞれ屋号が有りますが、当時若衆達が出入りをしていた宮川町の宿の屋号
であったと言われています。若衆歌舞伎は男だけの芝居だったので、女形を演じる美少年が
選ばれました。これが現在の女形役者へと発展したといいます。

祇園祭

八坂神社の祭礼で、京都三大祭、日本三大祭の一つ。
869年に流行した疫病封じのために行われた祇園御霊会(祇園会)が起源とされています。
牛頭天王の祟りとして、神泉苑に当時の国の数と同じ66本の鉾を立て、祇園社から神輿を送りました。
牛頭天王は、我が国の荒ぶる神・素戔嗚尊(すさのをのみこと)と習合し、
八坂神社の祭神として祀られるようになります。
南北朝時代以降は鉾に見立てた柱を装飾した山車が巡行するように。
応仁の乱(1467~77)後は祭礼が途絶えましたが、1500年に再興しました。
「洛中洛外図屏風」にも描かれ、昭和54(1979)年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
 
[スキマ情報]
切り口が八坂神社の神紋と似ていることから、
祗園祭の間はきゅうりを口にしないという京都のならわしがあります。

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祇園祭

京かんざし・花かんざし

舞妓さんの黒髪を飾る花かんざしは、江戸時代に祇園を中心とした花街文化の中で発展しました。
まるでカレンダーの様に移りゆく季節を花で表現し、
たくさんの舞妓の中でも目立つようにと職人がその技を競い合ううちに、華やかになっていきました。
デビューして数年の舞妓さんは「割れしのぶ」という髷を結い、
正面に付ける「勝山」とぶら付きの横挿しの2つのかんざしを付けます。
花も小菊といった小振りのもの。この期間を過ぎた舞妓さんは「お姐さん」と呼ばれ、
「おふく」という髪型になり、「勝山」が「つまみ櫛」に変わります。
ぶらの無いかんざしで、花や蝶の飾りも大振りになります。
祇園の「金竹堂(きんたけどう)」が京都で唯一の花かんざしのお店で、今も技法は変わらず、
全て一人の職人の手仕事によって作られています。
横挿しのものは、日舞や七五三の髪飾りとしても使います。
 
[スキマ情報]
[月々で観る花かんざし]
(1月)松竹梅。お正月には「実るほどに頭を垂れる」稲穂と鳩がついています。
    鳩の目を好きな人に書いてもらうと願いが叶うといわれています
(2月)紅白の梅
(3月)菜の花や桃。蝶の飾りも
(4月)桜
(5月)藤、あやめ
(6月)柳、紫陽花
(7月)祇園祭にちなんだもの(梵天)
(8月)すすき、朝顔、花火やうちわ等。銀のように涼感のあるものは夏に挿します
(9月)桔梗(秋の七草の一つ)
(10月)菊
(11月)紅葉、銀杏
(12月)顔見世のまねき

花かんざしの製作工程は、
1.白羽二重を染める(派手で濃い色が江戸好み、微妙な色合いは京好みなのだそうです)
2.糊付けしてハリをもたせる
3.布を裁断
4.「つまみ式」(四角に切った羽二重を折って花びらを作る)と
  「造花式」(コテを当てて花びらの形を整える)
5.「葺く」(花びらを一枚ずつ芯に糊付けする)
6.組み上げ(花と他の物とを組み合わせて束ねる)
7.束ねた茎の部分等を絹糸で巻いて仕上げる。
 花かんざしの実物は、祇園の金竹堂のほか、弥栄会館内の舞妓ギャラリーでも
 舞妓さんの髪型のミニチュアと共に観る事ができます。

出雲阿国(いずものおくに)

出雲阿国は、歌舞伎の祖とされている江戸初期の女性芸能者(生没年不詳)です。
天正10(1582)年に奈良の春日若宮にて「ややこ踊り」を演じたといい、
出雲大社の巫女と称して興行していました。
慶長8(1603)年には京都の北野社(北野天満宮)前で初めて「かぶき踊り」を披露。
これが歌舞伎の始まりとされています。
かぶき踊りが人気となり、これを模倣した遊女歌舞伎が四条河原で流行したといいます。

 [スキマ情報]
北野天満宮には阿国のパトロンともいわれた松梅院禅昌の燈籠が見られます。
大徳寺高桐院には阿国とその恋人の墓があります。
「かぶき踊り」は洛中洛外図や絵草子にも描かれています。

顔見世

「吉例顔見世興行 (きちれいかおみせこうぎょう) 」といい、
南座で11/30~12/6に行われ、関東・関西の人気役者が揃って出演します。
南座正面には役者名を勘亭流という独特の筆法で書いた看板「まねき」が掲げられ、
京都の師走を告げる風物詩となっています。
江戸期の役者は11月から翌10月までの1年契約で、
旧暦11月初めに各座の新しい役者が舞台で名乗り口上を述べていたことから由来しています。
 
[スキマ情報]
「顔見世総見」では、五花街の芸舞妓が花街ごとに日替わりで歌舞伎を鑑賞します。
揃って桟敷席に表れ居並ぶきれいどころの姿はとっても華やか!
思わず感嘆があちこちから漏れるのが聞こえます。
芸舞妓たちは、好きな役者の楽屋を訪ね、簪に付いているまねきにサインを貰う習慣があります。

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今日の京

祇園新橋伝統的建造物群保存地区

新橋通りと白川南通りが交差する辺りを指します。
祇園新橋付近は昭和51年に「伝統的建造物群保存地区」に指定されました。
この地区にある一部の建物が修理や改築をする際には、
江戸時代より祇園で受け継がれてきた伝統的な外観を維持する事が義務づけられています。
 
[スキマ情報]
祇園新橋の界隈は江戸時代中期に発展し始め、幕末~大正期に大いに賑わいました。
太平洋戦争中には強制疎開で多くのお茶屋が取り壊されてしまいましたが、
今でも景観を守り続けています。
昭和48年、町内の一軒のお茶屋を鉄筋三階建てのビルに建て替えるという計画に
お茶屋の女将達が町並み保存の運動を起こし、
翌年には京都市が祇園新橋を「特別保全修景地区」と定めました。

一文字瓦

祇園界隈の建物の庇に用いられ、下端が一直線に揃っています。

東山花灯路

清水寺から八坂神社~青蓮院までの情緒豊かな散策路を露地行灯といけばな作品の花で彩る
イベント。道沿いの寺院・神社でも特別拝観とライトアップが行われます。

一言コラム

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