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新撰組の足跡を訪ねて 不動堂村

慶応3年6月、西本願寺から近くの不動堂村に屯所を移した新選組。
大名屋敷のような広大な屯所だったそうだが、王政復古の大号令により、
約半年で退去することになる。屯所の面影は何も残っておらず、幻の屯所とも呼ばれている。

短い在住期間だったが、その間に、伊東甲子太郎一派の御陵衛士としての離脱、
御陵衛士の殺害(油小路の変)坂本龍馬の暗殺とその嫌疑を掛けられた三浦休太郎が
からむ天満屋事件と様々な事件が相次いだ。

引き続き新選組記念館館長青木さんのご案内で
幻の屯所・不動堂村周辺と流血の事件跡を追う。


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其ノ参~不動堂村周辺編~

おすすめコース


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不動堂編・モデルコース

島原・西本願寺編より続き】

(西本願寺)
  ↓(徒歩4分)
天満屋事件跡
  ↓(徒歩1分)
北小路の変跡
  ↓(徒歩4分)
油小路の変跡
  ↓(徒歩1分)
大阪屋
  ↓(徒歩3分)
本光寺
  ↓(徒歩2分)
伊東甲子太郎遭難の地
  ↓(徒歩2分)
近藤勇妾宅跡
  ↓(徒歩1分)
不動堂村屯所跡
  ↓(徒歩5分)
不動堂
  ↓(徒歩7分)
JR京都駅

天満屋事件跡(てんまやじけんあと)

堀川通を渡って、一筋東の油小路通を南へ。雪はたいぶ小降りになった。

天満屋事件跡は知ってはりますか?目立たないところにあるんですよ。」
正面通と交差する辺りにお地蔵さんの祠が。
その左隣に「勤王之士贈従五位 中井庄五郎殉難の地」という石碑が建っている。
毎日通っていてもつい見逃してしまいそうな小さな石碑。
これだけでは、新選組が関連した事件の碑ということもわからないだろう。

慶応3(1867)年12月7日夜、旅籠天満屋に泊まっていた紀州藩の三浦休太郎を
土佐の海援隊・陸援隊の残党達が襲撃し、警護していた新選組と乱闘になった


前月、坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺させた黒幕が紀州の三浦だ、という噂が出回り、
敵討ちが行われたのであろうか。三浦の護衛に斉藤一、大石鍬次郎らが当たったが、
酒宴をしている時、襲われた。まず、居合いの達人・十津川郷士・中井庄五郎が三浦に
斬りかかったが、行灯の火が消されて敵味方の区別がつかないまま斬り合いになってしまった。
やがて「三浦を討ち取ったぞ!」という声が上がり、刺客達は引き上げた。

しかし、これは新選組が機転を利かせて叫んだもので、三浦は軽傷を受けただけで無事だった。
三浦の物と思われていた首は実は中井庄五郎の首だったのだ。
中井の首は無惨にも仲間によって古井戸に投げ捨てられた・・・。
あはれなり!中井の首を刎ねたのは四条大橋で争ったことのある斎藤一だったとも言う。
襲撃側では中井の他は数名が負傷、新選組側は近藤勇の親戚の宮川信吉が死亡、
舟津釜太郎が重傷で後日死亡、4名が負傷。

このような惨事があったにもかかわらず、碑はあくまで控えめに建っていた・・・。

住所:下京区油小路正面上ル西側
お地蔵さんの横に建つ天満屋事件の碑 三浦を狙った中井庄五郎が警護の新選組に斬られた
お地蔵さんの横に建つ天満屋事件の碑 三浦を狙った中井庄五郎が警護の新選組に斬られた

北小路の変跡(きたこうじのへんあと)

天満屋跡より一筋南に「北小路通」がある。

「ここが天満屋事件の応援部隊が同士討ちをしてしまった所です。」

天満屋襲撃の報を聞きつけ、不動堂村の屯所から新選組の応援部隊が駆けつけた。
同じく西本願寺からも紀州藩の応援部隊が駆けつけたが、お互い敵と勘違いし、
油小路北小路で斬り合いになってしまったという。北小路の変という。
幸い死亡者は出なかったが、本物の敵には逃げられてしまったそうだ。

住所:下京区油小路北小路
新選組と紀州藩。天満屋事件の応援部隊が同志討ちしてしまった
新選組と紀州藩。天満屋事件の応援部隊が同志討ちしてしまった

油小路の変跡(あぶらのこうじのへんあと)

油小路を更に南へ。七条通りと交差する所が油小路七条の辻だ。
慶応3(1867)年11月18日、近藤勇妾宅に招かれた帰りに新選組に暗殺され、
本光寺前で息絶えた伊東甲子太郎

伊東は新選組に途中参加し、参謀となったが後に尊攘を唱え、
「孝明天皇の御陵を守る」との名目で15人の隊士とともに隊を分離、
御陵衛士として高台寺塔頭・月真院に屯所を置いていた。

体はそこから約100mほど北の油小路七条の辻まで引きずられて、囮として晒された。
深夜、伊東の遺体を月真院から御陵衛士達が引き取りに来た
月真院からここまでは早足でも40分はかかるだろう。

伊東の死体を駕籠に入れようとしたところを待ち伏せていた新選組が襲い、
壮絶な斬り合いとなった。御陵衛士は藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の3名が討ち死、
残り4名は逃走した。
藤堂平助は試衛館以来の同志。
永倉新八はわざと藤堂を逃がそうとしたが、事情を知らない三浦常次郎に斬られてしまった。
世に言う油小路の変である。

伊東・藤堂・服部、毛内の遺体はそのまま晒された。
寒さの為、遺体はカチコチに凍り付いていたという。
御陵衛士の残党が遺体を引き取りに来るのを待ったが2日待っても来ないので、
光縁寺に運ばれ、翌年孝明天皇陵のある泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬された。

かつての同志が刀を交え、無惨にも死体が晒された油小路七条。
今では交通量が多く、事故が絶えない場所だそうだ。

住所:下京区油小路七条
油小路七条の辻
油小路七条の辻

★食べる★大阪屋(おおさかや)

油小路七条の西に「自家製うどん・そば自慢のだし大阪屋と書かれた看板が目に入った。
油小路の変の際、「角の蕎麦屋」の二階で永倉新八らが伊東甲子太郎の死体を引き取りに来る
御陵衛士を見張っていたという。

気さくな店のご主人と奥様に「このお店はいつからの創業ですか?」と尋ねると
「昭和25年くらいからです。」とのこと。幕末とは道の幅も町並みも変わっていて、
戦前は近くの本願寺の門前町で商売されていたそうだ。

大阪屋さんと新選組との関わりはないそうだが、西本願寺の太鼓楼に新選組の屯所があったこと、
太鼓楼では30年ほど前まで時刻を知らせるために太鼓が鳴らされ、
この習慣は新選組の頃からあったのではないか
、ということなども親切に教えて下さった。

大阪屋さんの麺類は自家製でだしが利いていてとても美味しい。
全国各地の「たぬき」が味わえる
のも魅力の一つ。
東京風はあげと天ぷら、名古屋風はあげとかしわ、京都風はあげ入りあんかけ、
大阪風はきつねそばとたぬきも様々。

どれにしようか迷ったが、やはり京都ということで「京都風たぬき¥480-を注文してみた。
程良い甘みのおあげにネギとショウガの辛さがベストマッチ!
あんかけで体の芯まで暖まり、腹持ちもいい。
あんかけものの種類が豊富なことや鍋焼きうどんが¥530-とリーズナブルな価格で
食べられることも魅力の一つ。

親切なご夫妻と美味しい京風たぬきで身も心も暖かくなってお店を後にした。

住所:下京区堀川七条東入ル
TEL:075-371-3938
営業時間:10:30~17:00
定休日:金曜日
油小路七条西のうどん・そばの店大阪屋 日本全国のたぬきが味わえる。
油小路七条西のうどん・そばの店大阪屋 日本全国のたぬきが味わえる。

本光寺~伊東甲子太郎遭難の地

慶応3(1867)年11月18日夜、御陵衛士頭の伊東甲子太郎は、近藤勇の妾宅の帰り、
木津屋橋通を東に歩いていた。油小路通りに差し掛かった時、新選組の刺客に襲われた。
付近の板囲いの中から突然槍が突き出されたという。
深手を追いながらも防戦したが、法華寺(本光寺の事)の門前の石碑に倒れかかり、
「奸賊ばら!」と無念の声を上げ、息絶えた・・・。
伊東の遺体は新選組によって100m先の油小路七条の辻まで運ばれ、
御陵衛士をおびき寄せるための囮
にされた・・・。

本光寺の門前(鉄門の中)に「伊東甲子太郎他数名殉難の地」の石碑と説明版がある。
伊東が最期を遂げた山門に「説明書き1部50円」と張り紙が出ていたので、
ドキドキしながらチャイムを押した。・・・待つことしばし、尼僧のご住職が説明書を持ってきて下さった。
伊東が絶命した石碑を見たい旨を告げると、山門を開けて下さった。
門を入って右手にお墓のような大きな石碑がある。
「南無妙法蓮華経」と流麗な筆致で題目が刻まれていた。
この碑は幕末の当時は門前の藪の中にあったが、後、山門が道路寄りに移動し、
今では門の中に入っている。

「伊東は学もあり、大層な人物でした。
きっとこの碑に題目が刻まれていたことを覚えていて、
とっさにここを最期の場所をして選んだのでしょう。」と青木さん。
無念の死を遂げた伊東を思うと胸が痛む。石碑の前にはそっと南天が供えられていた・・・。

<本光寺>
住所:下京区油小路通木津屋橋上ル
説明書:50円(寺内は非公開)


本光寺を出て油小路を南へすぐ。木津屋橋通を西に入ったところ。
 「ここで伊東甲子太郎が襲われました。」 現在は散髪屋や民家が建ち並ぶ通りだ。

当時は禁門の変による火災で付近は焼け野原になっており、焼け跡に板囲いがしてあったという。
伊東は板囲いの中から突然繰り出された槍に喉を刺されたそうだが、
今の平和そうな町並みに惨劇の面影はない。

<伊東甲子太郎遭難の地>
住所:下京区油小路木津屋橋西入ル
伊東甲子太郎終焉の地・本光寺 伊東甲子太郎は「南無妙法蓮華経」の碑にもたれて息絶えた。 襲撃されたのはこの辺り?
伊東甲子太郎終焉の地・本光寺 伊東甲子太郎は「南無妙法蓮華経」の碑にもたれて息絶えた。 襲撃されたのはこの辺り?

近藤勇妾宅跡(こんどういさみしょうたくあと)

新選組の伍長以上は屯所の近くに家を借りて「休息所」と称し、愛人を住まわせ、
そこから通勤することが許されていた。
局長近藤勇は大坂織屋の深雪太夫を落籍させて醒ヶ井通木津屋橋下ルに住んでいた。
深雪の死後は妹のお孝と共に同じ場所に住んだ。

近藤勇の妾宅は安寧小学校の辺りになります。」

第二次世界大戦中の建物疎開により堀川通が拡張された。
この時安寧尋常小学校は西に移動されたそうだ。
御方紺屋町にお住まいだった川崎泰市氏の作成された戦前の七条堀川付近の地図を見ると、
近藤勇の妾宅は移動前の安寧尋常小学校の西南角に当たる。
住所で言うと「醒ヶ井通木津屋橋下ル御方紺屋町494番地」。
今は堀川塩小路上ル。堀川通りのど真ん中。丁度陸橋がかかっている辺り
だろうか?

伊東甲子太郎は近藤勇の妾宅に招かれた後に近くで殺されている。
又、不動堂屯所を引き払った後も、沖田総司がこの休息所で療養していると聞きつけて
御陵衛士の残党が襲撃
したり、近藤勇が二条城に行った帰りにこの休息所に立ち寄ったり
(帰りに伏見で御陵衛士に襲撃されている。)と長い間使われていたようだ。

<近藤勇妾宅跡>
住所:下京区堀川通塩小路上ル


休息所には屯所から三度の炊き出しが届けられ、結構いい生活ができたようだ。
他に場所がわかっている休息所には原田左之助が妻(正式に結婚していた)のまさと
住んだ醒ヶ井七条下ル釜屋町の家
がある。
前出の川崎氏作成の地図に七条醒ヶ井西入ルに原田さんというお宅があった。
気になって川崎氏に伺ってみたところ、原田左之助とは関係ないとのこと。ちょっと残念。
しかし、堀川(戦前は醒ヶ井通)七条下ルに「鎌屋町」という町名が残っている。
近藤勇妾宅にも不動堂村屯所にも近い。
字が違うが、原田左之助は妻子と今の堀川七条下ル鎌屋町に住んでいたのではないか?
と想像してみた。

<原田左之助宅跡?>
住所:下京区堀川通七条下ル
近藤勇妾宅跡は安寧尋常小学校の辺り。(写真は現在の元安寧小)
近藤勇妾宅跡は安寧尋常小学校の辺り。(写真は現在の元安寧小)

不動堂村屯所跡(ふどうどうむらとんしょあと)

慶応3(1867)年6月15日、新選組は屯所を西本願寺から不動堂村に移した。
今のリーガロイヤルホテルの辺りが不動堂村の屯所に当たります。」と青木さん。
堀川通りを挟んで東側、今の資生堂ビルの辺り、という説もある。
今のリーガロイヤルの辺りだとすると、西本願寺から堀川通を南に700mくらい下がった
ご近所の引っ越しだ。新屯所の近所には近藤勇の妾宅がある

西本願寺では防備が薄いと心配した新選組が寺院側に移転を申し入れ、
兼ねてから新選組には大迷惑していた西本願寺は追い出すチャンスとばかりに、
新屯所建築費用まで負担してくれた。敷地は約1万平方メートルで外観は大名屋敷のようだったという。
中央に大広間、その両側に大廊下があり、廊下に沿ってに隊士達の部屋、
近藤・土方らの居間が建ち並び、武芸道場、客間、馬屋、物見櫓もあった。
まるで寺院のような広い台所や30人が一度に入れる風呂まであったという。

これほど立派な屯所を建てたにも関わらず、約半年後に新選組は不動堂村を撤退し、
伏見の奉行所に移っている。
幕府勢力の衰退が背景にあるとはいえ、
何とももったいないような気がする・・・。

住所:下京区堀川通塩小路
不動堂村屯所跡は今のリーガロイヤルホテル? 資生堂ビルの辺りという説もある。
不動堂村屯所跡は今のリーガロイヤルホテル? 資生堂ビルの辺りという説もある。

不動堂 明王院(ふどうどう みょうおういん)

堀川通にかかる歩道橋を渡る。道祖神社の隣に不動堂・明王院がある。
新選組最後の屯所のあった地・不動堂村の名前の由来になったお堂だ。
薄暗いお堂の中には、不動明王、弘法大師、役行者が祀られている。

禁門の変の時、この辺りも焼け出されましたが、井戸の中にお不動さんが入ってい たので、
奇跡的に助かった
んですよ。」と青木さん。

新選組が活躍した禁門の変で見事に焼け残ったお不動さんゆかりの地が、
後に新選組の屯所となった・・・。

隊士の中にも明王院のお不動さんに参った者はいただろうか?
運命的なものを感じながら明王院を後にして京都駅へ向かった。

新選組記念館館長の青木さんと行く島原~不動堂村ツアーもこれで終わり。
一人では決して見つからないようなスポットまで教えていただき、大変貴重で楽しい一時が過ごせた。

青木さん、本当にありがとうございました!!

<近藤勇妾宅跡>
住所:下京区油小路通塩小路下る南不動堂町
TEL:075-371-6583
不動堂村の名前の由来になった不動堂明王院。
不動堂村の名前の由来になった不動堂明王院。

* →新選組について(隊士の情報、大事典、詳細年表等)詳しくは新選組の史実を追求するサイト「幕末維新新選組」様の屯所内をご覧下さい。

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壬生 島原~西本願寺 不動堂村 伏見
黒谷~四条~三条 その他関連史跡 参考文献  

※このページの掲載情報は、取材時のものであり、現在のもの、歴史上の事実とは異なる場合がございますので、ご了承下さい。参考としてご覧頂きますようお願い申し上げます。

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