人物名 |
属 性 |
解 説 |
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土佐藩 |
海援隊の会計係から三菱財閥の創業者へ
土佐の最下級郷士に生まれましたが、学問に励み、後藤象二郎と共に
吉田東洋に学びます。後に権力を握った後藤象二郎に藩の商務組織・
土佐商会の長崎留守居役として抜擢され、龍馬の海援隊の会計係も
務めました。龍馬の暗殺後は、藩営を離れた大坂商会を引き継ぎ、
後に三菱商会として独立。政商として成功し三菱汽船会社と拡張発展
させて海運業界を独占、三菱財閥の創業者となりました。 |
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土佐勤王党
土佐藩郷士
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土佐勤王党を結成
土佐藩主・山内容堂の側近・吉田東洋の暗殺を指令して一時藩政を
掌握、藩論を開国・公武合体派から尊王攘夷に導きました。
八月十八日の政変で尊攘派が一掃され、勢いが衰えると土佐藩も
これに追従、返り咲いた容堂が土佐勤王党を弾圧します。
帰国し長い獄中生活の末、未だ誰も為し得なかった三文字の切腹で
その生涯を閉じました。 |
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土佐勤王党
陸援隊
土佐郷士
(脱藩) |
龍馬をリードし、共に散った陸援隊隊長
土佐郷士の出身で龍馬と同じく土佐藩を脱藩、
土佐勤王党を攘夷論から富国強兵・討幕路線へと導き、
坂本龍馬と共に薩長同盟を実現しました。
坂本龍馬と共に近江屋で襲撃され、30歳という若さで亡くなりました。
【スキマ情報】
薩長同盟、大政奉還どちらも中岡が龍馬より先にリードしていたと
いいます。 |
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幕 府
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先進的思想を持った龍馬の師匠
咸臨丸で太平洋を横断した後、幕府に海軍操練所の設立を発案、
池田屋騒動や禁門の変による一時蟄居させられますが、
鳥羽伏見の戦い後は軍事総裁として全権を任され、
江戸無血開城に尽力しました。 |
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尊皇攘夷
長州藩 |
尊皇攘夷討幕運動を指導した長州藩のリーダー
幕末から明治維新の政界で活躍したことで、
西郷隆盛や大久保利通と共に「維新三傑」の一人に数えられています。
龍馬が立ち会った薩長同盟の際の長州藩の代表。
明治維新後は参議として版籍奉還や廃藩置県に尽力、
岩倉使節団の副使も務めました。 |
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薩摩藩
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薩摩藩の下級武士の出身ですが、
開明派藩主・島津斉彬に見出され影響を受けます。斉彬の死後は
失脚や流罪にあうなど不遇が続きますが、家老・小松帯刀や
大久保の後押しで復帰、薩摩、新政府の軍事リーダーとして活躍。
薩長同盟の際の薩摩藩代表。
木戸孝允や大久保利通と共に「維新三傑」の一人。 |
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攘 夷
公武合体 |
攘夷を主張した平安京最後の天皇
激しい攘夷主義者でしたが、倒幕運動には反対しました。
妹・和宮の将軍家茂への降嫁に応じ、公武合体を容認しましたが、
幕末の動乱の最中に急死しました。 |
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幕 府
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江戸幕府最後の将軍
大政奉還を行いますが、朝廷に行政能力が無いとして徳川家の
政権復帰を模索していたとも言われており、
それが叶わず家臣に押され、鳥羽伏見の戦いを起こす事になります。 |
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幕 府
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藩政改革、幕政改革を進めた土佐藩主
松平春嶽や勝海舟の尽力によって、龍馬の脱藩の罪を許します。
龍馬の大政奉還論を後藤象二郎から伝えられ採用、
15代将軍・徳川慶喜へ建議しました。 |
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会津藩主
京都守護職 |
京都の治安維持に努め、幕府と朝廷から信頼
幕府の権威が失墜し、天誅の嵐で荒れる渦中で
京都守護職の任を引き受けます。
鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れ、会津若松城を受け渡して
謹慎生活を送りました。日光東照宮初代宮司。 |
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会津藩 |
将軍上洛にあわせ警護役として入洛した幕府浪士組の中の近藤勇や
土方歳三、沖田総司、永倉新八、芹沢鴨らが結成しました。
壬生の前川・八木邸を屯所として尊王攘夷派や倒幕派の弾圧を行った
刺客集団。 |
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土佐藩家老
公武合体
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かつての仇敵が意志を引き継ぐ
かつては龍馬にって土佐勤王党を弾圧した敵でしたが、
後に龍馬が船中八策で唱えた大政奉還論を土佐藩の藩論として
前藩主の山内容堂に提案。
海援隊の結成や土佐商会への引継ぎにも協力しました。 |
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開 国
公武合体
松代藩
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龍馬や勝に西洋砲術を教授
下級武士の出身ですが、数学、儒学を学び、彼の私塾は、
坂本龍馬を始め吉田松陰、勝海舟などの逸材を輩出しています。 |
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福井藩
開 国
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龍馬を支援した幕末四賢候の一人
越前福井藩主。
政事総裁職でもあり、龍馬に勝海舟と会うための紹介状を与え、
海軍塾(後の海軍操練所)設立の資金援助もしています。
維新後も新政府の要職を務めました。 |
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薩摩藩
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龍馬らを支える薩摩藩の若き大老
島津久光に見出されて側近となり、後に若くして大老なって
薩摩藩の実務をこなし、龍馬と共に薩長同盟を成しました。
龍馬とお龍の薩摩旅行の際には自邸に二人を泊めています。 |
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龍馬をかくまった町人
高瀬川近くで材木商を営む酢屋の6代目当主。
龍馬を自邸の二階にかくまい、龍馬は家の人から
「才谷さん(龍馬の変名)」と親しまれました。 |
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日本の近代化に貢献した商人
日本では長崎を拠点に、薩摩・長州・土佐ら討幕派の藩を支援し、
武器商人として活躍。亀山社中とも取引していました。
伊藤博文らの海外留学も支援し、維新後は岩崎弥太郎が買収した
高島炭鉱所の開発などを手がけました。 |
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尊皇攘夷
長州藩
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長州藩に命を捧げた尊攘志士
松下村塾出身。尊皇攘夷の急進派として活躍、
八月十八日の政変による失地を奪還すべく尽力しますが、
禁門の変にて敗れ、自害しました。 |
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尊皇攘夷
奇兵隊
長州藩
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奇兵隊創設、尊皇攘夷討幕志士の中心的存在
江戸遊学(松下村塾出身)、上海渡航を通じて攘夷は困難と判断し、
長州藩を討幕へと転換させました。
身分に関係無く入隊できる奇兵隊を創設、総督となって幕府軍を撃破。
これが大政奉還へと繋がります。
【スキマ情報】
「おもしろきこともなき世におもしろく」という名言を残しています。 |
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尊皇攘夷
長州藩
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尊攘派から開国派へ転じた初代内閣総理大臣
貧農出身ながらも松下村塾で学び、尊攘派志士として活躍しますが、
英国留学の後は開国派に転じました。
維新後は要職を歴任して帝国憲法の制定等に尽力、
初代首相にもなりました。 |
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尊皇攘夷
天誅組
土佐藩士
(脱藩)
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尊皇攘夷討幕を掲げる天誅組を結成
天誅組は、孝明天皇の大和行幸の先陣として大和国の五條代官所を
襲撃、行幸は中止となり、幕府軍の討伐によって壊滅、
寅太郎も戦死しました。
【スキマ情報】
龍馬よりも早く脱藩しています。 |
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尊皇攘夷
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朝廷内の攘夷派公卿
長州藩を支持、姉小路公知と共に朝廷内の攘夷派の中心的存在
となり、公武合体派の岩倉具視と対立しますが、
薩長同盟後は討幕に貢献します。
維新後は明治政府の要職を歴任しました。 |
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亀山社中
海援隊
土佐郷士
(脱藩) |
坂本龍馬と共に脱藩、亀山社中・海援隊の要員となって
龍馬を支えました。 |
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幕 府
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開国政策を強行した幕府の大老
徳川家の後継者争いの最中に大老に就任し、
慶福(家茂)を14代将軍とします。
開国政策への反対勢力を弾圧(安政の大獄)する強権政治を
行っていたため、桜田門外の変で暗殺されます。 |
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公武合体 |
近代日本を導いた公家
下級公家の出身ですが、和宮の降嫁に尽力して公武合体を進めた
ため尊攘派に弾劾され、5年間幽棲。討幕を目指す薩長と共に朝廷を
動かし、王政復古の大号令を実現させました。岩倉使節団大使。 |
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土佐藩 |
龍馬に日本のあり方を説く
京都では狩野派に絵を学び、長崎では蘭学や世界情勢を知ります。
画塾「墨雲洞」を開き、また約10年ぶりにアメリカから帰国した
ジョン万次郎の取り調べ役を担い「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」に
まとめました。龍馬が大いに感化された人物です。
【スキマ情報】
京都の琵琶湖疎水工事を記録するスケッチも制作しています。 |
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肥後藩
開 国 |
先見の明ある政治思想家
儒学者で、松平春嶽の政治顧問として福井藩に招かれ改革を指導、
幕政改革にも関わります。
私塾「四時軒」を開き、新政府をあり方を模索した坂本龍馬も
大いに影響を受けたといわれています。 |