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今さら聞けない坂本龍馬(学問編)


今さら聞けない坂本龍馬 今さら聞けない幕末維新 龍馬と共に生きた人々

 

 
 

坂本龍馬といえば、日本中の誰もが知っている歴史上の人物。
熱狂的なファンが集う一方で「なんとなくしか知らない…」
という人も意外に多いのです。
そこで、教科書で習った坂本龍馬という人物と幕末の維新回天について、
もう少し詳しくおさらいしてみましょう。
黒船の来航からわずか15年の間に日本が大変革を遂げ、
龍馬が歴史の表舞台として活躍したのは5年ほどの事だったのです。



◆坂本龍馬データ
生年月日:天保6(1835)年11月15日(新暦で1836年1月3日)~慶応3(1867)年11月15日
出身:土佐藩(現在の高知県)



◆坂本龍馬を知るエピソード


泣き虫の劣等生だった少年時代

郷士という下級武士の身分ながらも比較的裕福な坂本家の次男として育った龍馬は、
寝小便がなかなか治らず泣き虫で、12歳で楠山塾に入るも続かずに退塾したと言われています。

剣術を極め、江戸に渡る

龍馬を心配したのか、父・八平は龍馬の心身を鍛えるため、14歳の頃の彼を日根野道場へ入門させます。
また、男勝りな姉・乙女も厳しく龍馬を鍛えました。
そこで龍馬は頭角を現し、5年後には「小栗流和兵法事目録」を授かります。
更に剣術を極めるべく、龍馬は父の後押しで江戸へ修業に行きます。
当時、江戸の三大道場の一つとされる北辰一刀流の桶町千葉道場へ入り、腕を磨きました。
そして修業を修め一時土佐に帰りますが、再び江戸へ渡り、後に桶町千葉道場の塾頭を
務めるまでになりました。ここで「北辰一刀流長刀兵法目録」を取得しています。

黒船来航、西洋文化に触れる

江戸遊学中の修業の場であった剣道道場は、時勢を語らう情報交換の場でもありました。
龍馬は、西洋砲術に精通する佐久間象山の私塾にも通っています。
その頃、黒船が浦賀に来航。江戸中が大騒ぎとなる中で、
龍馬は土佐藩の命により、沿岸の警備隊として召集されたようです。

「日本を救いたい!」28歳で脱藩

二度目の江戸修業の後、帰郷した頃の龍馬は攘夷派の思想を持ち、
親友の武市瑞山が結成した土佐勤王党に加わりました。
しかし、土佐一藩という狭い範疇の中での限界を感じ、日本を救うために奔走しようと、
沢村惣之丞と共に脱藩します。それは、命がけの決意でした。

出会いの連鎖、勝海舟に弟子入りして活躍

土佐藩を脱藩して浪人となった龍馬は、土佐藩の近藤長次郎や間崎哲馬の協力によって、
政事総裁職でもあった越前福井藩主・松平春嶽に拝謁する機会に恵まれます。
そして当時の幕府の軍艦奉行であった勝海舟に会うための紹介状を与えられました。

島国日本に迫る西洋諸国を前に幕府の権威が揺るぎ、
また尊皇論と攘夷論が結びつき加熱する中で、
勝の考え方は、諸外国に対抗するためには貿易によって国力をつけ、
強力な海軍を作る必要があるというものでした。
これまで尊皇攘夷派の志士であった龍馬は感銘を受け、勝に弟子入りしたといいます。

勝海舟のもとで海軍操練所の設立に尽力した龍馬は、前身・海軍塾の塾頭を務めたとも言われています。
松平春嶽から莫大な設立資金の援助を引き出すのに成功。
ここでの活躍が認められ、春嶽や勝の協力によって、土佐藩主・山内容堂から脱藩の罪を許されます。
一浪人であった龍馬が、薩摩藩の西郷隆盛など諸藩の大物達の目にも留まる存在になります。

貿易会社「亀山社中」を設立

池田屋騒動に海軍塾生が関わっていたことが原因で操練所は廃止され、
勝海舟は失脚。勝によって龍馬は、薩摩藩へと預けられます。
薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀らは、龍馬の情報収集力や交渉力、
航海技術を活用しようと考えていたためと思われます。
慶応元(1865)年、龍馬は薩摩藩の支援を得て、海軍塾生や土佐藩士の盟友と
亀山社中」という貿易会社を長崎に設立しました。

歴史的和解・薩長同盟を実現

尊王攘夷運動を進める長州藩(毛利家)と、公武合体運動の薩摩藩(島津家)は犬猿の仲でした。
もはや幕府を倒し新しい国を作る事の必要性を感じていた中岡慎太郎らが、
両藩の仲を取り持とうと難儀するなか、その関係修復に大きく貢献したのが亀山社中(後の海援隊)でした。

当時、外国から武器を輸入する事を禁止されていた長州藩に代わって、
龍馬らは薩摩藩の名義で武器商人のグラバーから武器を購入、長州藩へ調達します。
また、長州藩から薩摩藩へは米が送られ、物資不足を相互の協力で解決する事で
両藩の溝が埋まっていきます。

ようやく同盟を結ぶための席が整えられましたが、両藩のプライドが邪魔をするのか、
なかなか進展しません。
それを聞いた龍馬は、長州の桂小五郎、薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀の会談に立ち会い、
「今は長州、薩摩と言っている場合ではない。日本国のために集まっているのではないか」と説得、
薩長同盟が締結されました。慎重な桂小五郎は6ヵ条の盟約を示し、
龍馬を証人としてその裏書きを求めました。

龍馬が描く「船中八策」から大政奉還へ。明治新政府の指標となる

幕府が政権を朝廷に返上して政体を変革するという大政奉還論は、
かねてより大久保一翁や勝海舟らが提唱していましたが、実現には至らないままでした。その頃、
薩長同盟によって結ばれた薩摩・長州両藩は、新政府樹立のため武力討幕に向けて動き始めます。
諸外国の脅威が迫る日本で内乱を起こす事を避けたいと考えた龍馬は長崎から京都へと向かう船の中で
大政奉還論など新国家の構想を描いた「船中八策」を考案します。
それに感化された土佐藩の後藤象二郎が、土佐藩の藩論として前藩主の山内容堂に提案、
15代将軍の徳川慶喜へ建議されました。

龍馬の直筆による「新政府網領八策」は、大政奉還の後「船中八策」を元に書かれたとされ、
後に「五箇条の御誓文」の原案となり、明治新政府の指針となったのです。

明治維新を目前に暗殺

京都の近江屋で龍馬と中岡慎太郎が話しているところを何者かが襲撃。
頭蓋骨を割られた龍馬は応戦空しく死亡、慎太郎も数日後に亡くなりました。

龍馬を暗殺した犯人については諸説ありますが、京都霊山歴史館には龍馬を斬ったと伝わる刀があり、
持ち主は京都見回組(幕臣によって結成され新撰組と共に反幕府勢力を専門に取り締まった)の
隊士・桂早之助であるとされています。

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