八月十八日の政変の際、堺町御門の警備担当だった長州藩の藩士らが この門に集結しましたが、会津・薩摩藩の藩兵によって侵入を阻まれました。 |
かつては御苑内には大小200軒もの公家屋敷が町を形成し、
武家政権が終盤を迎える幕末には、再び政治の表舞台となった京都御所。
尊皇攘夷論が激化する中で様々な事件、戦乱が起き、
また新政府の樹立を宣言された場所でもあります。
アメリカから来日した総領事ハリスが 日本に対して通商条約の締結を求めていた頃、 京都では時の関白・九条尚忠(ひさただ)の邸などで、 幕府と朝廷との様々な交渉が行われていたといいます。 e京都ねっと:時代祭り・見学のコツ |
五摂家の一つ。 当主の鷹司政通(まさみち)は幕府寄りの立場から尊攘派へと転向、安政の大獄で処分を受けました。禁門の変で、長州藩士らは鷹司邸に陣取って、幕府方と戦います。 政通に孝明天皇への弁明を嘆願するも聞き入れられなかった久坂玄瑞や寺島忠三郎らはここで自刃したといいます。 |
禁門の変は別名「蛤御門の変」とも呼ばれ、この門の付近で長州藩と、御所を護衛していた会津・薩摩・桑名藩とが最も激しく戦いました。元は新在家門という名でしたが、大火で閉ざされていた門が初めて開いたため、焼かれて口を開く蛤に例えてこう呼ばれるようになったといいます。門には鉄砲の弾傷のような跡が残されています。 鷹司邸や長州藩邸に放たれた火は燃え広がり、「どんどん焼け」と呼ばれる程の大火事となって市内を焼け野原にしました。 |
御所内の御学問所では王政復古の朝議、 小御所では小御所会議が行われました。 関連サイト:宮内庁-京都御苑一般公開 |
孝明天皇の異母妹・和宮は生まれてからここで14年間を過ごしました。 公武合体政策のために有栖川宮熾仁親王との婚約を破棄され、 14代将軍・徳川家茂に降嫁します。 明治維新後は、徳川慶喜の助命にも尽力しました。 |
京都御所の北東角を鬼門封じとして角を落とし、屋根裏に烏帽子姿で御弊を担いだ猿の木像が置かれています。文久3(1863)年5月、公家の中で攘夷派の中心人物であった姉小路公知が、朝議からの帰途この辺りで刺客に襲われ、自邸で絶命したといいます(猿ヶ辻の変)。 犯人は、現場に残されていた刀から、薩摩藩の田中新兵衛として捕らえましたが、取調べ中に田中が自害したため、真相は分かっていません。 |
薩摩藩士・大久保利通は、藩邸から離れ、民家に隠れ住んでいました。 岩倉具視らと討幕の為の朝廷工作に携わり 大政奉還から王政復古に尽力しました。 新政府の参与や初代内務卿などを歴任するも、 明治11年に暗殺されています。 維新三傑の一人。 関連サイト:大久保利通旧邸 |
京都御苑の猿ヶ辻で殺された姉小路公知や、 岩倉具視の腹心で王政復古の勅を起草、錦旗のデザインも 考案したという玉松操(玉松真広)のお墓があるそうです。 関連サイト:浄土宗大本山・清浄華院 |
王政復古を唱えていた三条実万(さねつむ)・尊皇攘夷の 急進派公卿の中心となった実美(さねとみ)親子を祭神として 旧三条邸跡の辺りに祀っています。 龍馬の初恋の相手と言われる平井加尾は三条家に仕えていたともいいます。 e京都ねっと:萩祭り・梨木神社 |
横井小楠殉節地 | |
明治維新後は政府参与となりましたが、 御所参賀の帰途この地で保守派によって暗殺されました。 関連サイト:横井小楠殉節地 |